多民族共生人権教育センター
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インタビュー 朴実(パク・シル)

朴 実(パク・シル)さん

朴 実(パク・シル)さん

朴実さん音楽家。東九条マダン実行委員長。
1944年、京都市下京区(現南区)東九条にて出生。在日朝鮮人2世。
1971年、帰化によって日本国籍になる。
1987年、帰化時に強制された「日本的氏名」から民族名を取り戻す。

(東九条マダン実行委員長)

「東九条マダン10年を迎えて」


「パク・シル」という名前を取り戻すまで

― 最初に、ご自身のことを伺います。民族的なこととの出会いのきっかけは何だったのでしょうか?

朴: 1968年に出入国管理法案が提出されたときに、ここ東九条で反対運動が起こりました。日本人の友人も「この法案が通れば、自分の友人が弾圧される」と言って闘っていた。それまでは歴史のことも何も知らなくって、初めて、故・朴慶植さんの「朝鮮人強制連行の記録」を読んで非常に衝撃的だった。それが最初の出会いかな。

― そういう出会いの後に、帰化されることになり、葛藤があったのではなかったですか? 

朴: 本を何冊か読んで、自分のアボジ、オモニがなぜ日本に来ざるをえなかったかを知った頃でした。結婚の時、相手(日本人)の家族から猛烈に反対され、むこうの父親から「帰化してほしい」と言われ、最初、「はい」と言って返事したんだけど躊躇がありました。しかし帰化手続きとはどんなものかと思って、自分で法務局に行って。すると相手のペースにのせられていくんです。あとになって思うと、「日本的な氏名の強制」とか、「十指の指紋をとる」とか、プライバシーも何もないような状況があったし、それに「日本国籍をとらせてやるんだ」みたいな係官の態度とか、そういうことを思うと、当然抗議すべきだったんだけど、あの時はそこまで強く抗議する意識を持っていなかった。

― 帰化を申請してからは、順調に進みましたか?

朴: ちょうど一年後に法務局から呼びだされ、署長から握手を求められてね。「おめでとう、今日からあなたも立派な日本人です」と。しかしその一年の間にも朝・日近現代史を勉強していたし、出入国管理法案もまた出たりしてね。ちょうど70年安保とか沖縄返還とか、全共闘とか、世の中全体揺れていた時代でした。そういう中に自分が入っていけばいくほど、もう一度自分を取り戻したいという思いが強くなっていったんです。

― 結婚されてから、自分の日本的氏名を「パク・シル」に変える決意をされたのは?

朴: 結婚が1970年で、1970年4月に帰化申請して、翌年帰化し、その年の11月に子どもが生まれたんですが、その頃、子どもへの責任を考えました。自分というものをこの子に伝えていきたいという。自分があるのはアボジ、オモニがいたからですよね。アボジ、オモニがどうして日本に来たのか。あるいは、なぜ東九条に朝鮮人が多いかというと、土木工事とかがあったからですね。そういうものを伝えていきたいと思うと・・・。通名というのは、創氏改名にさかのぼる屈辱的な名前でもあるわけだから、自分らの時代になっても子どもにも名乗らせるのは間違ってると思った。妻のおなかをさわると子どもが動く。そういう時、親として嬉しい反面、不安なんやね。このような社会に子どもが生まれてくるのが。
 うちの場合、アボジが早く亡くなって、長兄が力を持っていた。「朝鮮人は日本人より一段劣っている」という価値観で僕らも教育を受けたから、一世のオモニに対して見下げた見方をしていたわけやね。オモニは、満年齢でいうと16で結婚して、教育も受けていない。字も読めないけど、一生懸命育ててくれたのに・・・。でもだんだん、歴史を学んだりするようになって、オモニの生きざまを見て、自分がひどく恥ずかしく思えてね。アボジが亡くなった後、日雇いをしながら子どもを育てるのがどんなに大変だったか。それを思うと、うちの子どもたちにも伝えていきたいと思ってね。


東九条マダンの始まり

― 東九条マダンは今年10周年ですが、その前から取組みがあったんですよね? 

朴実さん朴: 1984年頃に、子どもたちに何か民族文化を学ばせてやりたいと思って、東九条に「子どもチャンゴ(太鼓)教室」を開いたんです。ちょうどその頃、「九条オモニハッキョ(母親学級)」の文化祭を公園でやったり、児童館の子らと子どもマダン劇をしたこと等がきっかけで、東九条で、本格的に民族文化を学んだり創造したりする場を持とうということになって、1986年に「ハンマダン(一つの広場)」を結成しました。最初は、韓国のマダン劇を紹介するというかたちでしたが、そのうちオリジナルの歌をつくったり、テープをつくったり。地域の夏祭りとか、学校や職場に呼ばれて演奏したりもしました。生野民族文化祭の第1回が1983年にあった時に、九条の子らと観に行って、「東九条でもあんなもの、やろなあ」ということを言った。他のいろんな青年団体、オモニハッキョに入ってる若い人たち、地域の「希望の家保育園」にも呼びかけて、より広いマダンをやろうと。東九条マダンというのをやろうと。


日本人と一緒に

― 生野民族文化祭は終わってしまいましたね。

朴: 残念やね。ハンマダンは最初から日本人と一緒にやっていました。それに対して生野の仲間から、「なぜ日本人とやるのか。奪われた文化を自分達自身で取り戻すのだから、在日同胞主体でやるべきだ」と批判されたこともある。マダン劇に最初に取り組んだ時、ぼくらは楽器も叩いたこともなかった。ふだんは通名を使っていた人がほとんどです。それでもみんなチョゴリを着て、日本人も一緒にやる。中にはずいぶん抵抗がある人もいた。
 でもぼくは「日本人とやっていくべき」と思っていた。それは、一つには、自分達が素晴らしいと思うものは、誰にとっても素晴らしいものでないといけないから。僕は音大出身だけど、西洋から来た先生の中には、「バッハは東洋人にはわからん」という態度の先生もおられたんです。でも本当に人間にとって魂を揺り動かすほどのものだったら、アフリカの音楽でも中南米の音楽でも、素晴らしいはず。普遍化しないといけない、ということが一つ。もう一つは、年齢が下がれば下がるほど、ほとんどうちの子らと同じようなダブルの立場の子が多いのです。(親の一方が日本人)この子達にとっての「民族」とは? 今までの狭い考え方では通用しない。そう考えていくと、日本人を排除するなんてできなかった。


和太鼓をとり入れた理由

 東九条マダンをたちあげる時にいろんなイメージを語り合った。「在日の民族文化を中心に」というのは違いなかったが。「日本の文化も」とか、いろんな意見がある中で、最初から「和太鼓を入れよう」という話があった。日本の文化の中にも、家元制があったり、天皇制につながるものもあるでしょう。なぜ和太鼓と一緒にやることにこだわったかというと、東九条地域に住んでいる日本人の中には被差別部落出身者が多くいます。有名なオールロマンス事件もここが舞台だった。だから、東九条というのは部落民と一緒に生きてきた地域でもあるし。それからハンマダンに所属しているある青年は、日本人なんだけど、被差別部落出身であるだけで相手の親から結婚が認められていなかった。子どもが生まれたのに会おうともしない。そういう現実も知って。和太鼓というのは、部落産業でもあるし、和太鼓の文化もあってね。同じやるなら、誰といっしょにやるのか、何をつくっていくのかということやね。ハンマダンは民族文化だけでなく「民衆文化」にもこだわっていた。


一緒に「つくる祭」

― 来年11回目ということですが、引き続き、このことだけは守っていきたい、つなげていきたいというのは?

東九条マダンの祭り朴: 東九条マダンのポスターやチラシには「行こか、つくろか」って書いてあるでしょう。「つくる祭」なんです。既成のものだけやるんじゃない。「和太鼓&サムルノリ」が今のようにセッションになったのは、第4回目からですが本格的に一つの曲として創作し出したのは3年前からです。最初は別々にやってたんだけど、若いメンバーから、「一つの曲、ストーリーを考えよう」と提案しました。朝鮮人と日本人が出会う、お互いに紹介する。最初は自分のいいところを出そうとする。音をぶつけてみる。そしたら聞いていられない音になる。なおも自己主張しようとすると、混乱してしまう。そこで一歩引く。別れるんじゃなしに。そこからお互い探り合う。どこかで「一緒にできる」ところがあり、それを徐々に高めていく。最後は合奏する。それを一番最初に演奏したのを聴いて、僕も妻も涙が出たね。

― なんとなく、じーんと来ました。

朴: ぼくらの家庭だけじゃないけれど、朝鮮人と日本人が出会うというのはきれいごとだけじゃない。同じ家で暮らすとお互い葛藤もある。けんかもいっぱいしてきた。なかなか、お互い育った文化、環境というのは、そう変えられないし。食べ物だって、服だって、ものの考え方だって。でも「一緒に生きていきたい」という願いがあって。それが一つの音になった、というか。


文化施設がほしい

― 話は変わりますが、日朝会談後、厳しい雰囲気があるのではないでしょうか? 

朴: それはとても気になっていた。なかなか眠れなくてね。準備の時に学校の校門に「日本から出て行け」というビラが40、50枚まかれていたこともあった。今回は1ヶ月ぐらい前から、深夜に電話があってね、「日本から出て行け」とか、「拉致に仕返ししてやるぞ」とかね。「東九条マダンをつぶしてやる」いう電話があったもんで、心配でした。あまり、あからさまに警備してもらうわけにはいかないし、こちらでもできるだけ努力してね。何も無くてほんとにホッとしてるんだけど。最近、小学生でも「拉致」というふうな言葉を使うらしいね。「拉致してやろうか」とかね。

― でも無事、盛況に終わって良かったです。これからのことを少しお聞かせください。

朴: 練習場所が欲しいですね。今はいろんなところを渡り歩いているので大変なんです。子どもは公園、保育所、児童館などで練習している。せめて学校を借りられたらいいんだけどね。ハンマダンの練習場所を6年前に作ったけど、狭いんです。体育館も希望の時には借りられないし。将来的には文化施設があればと思います。「川崎ふれあい館」のような。そこでチャンゴの練習もやり、オモニハッキョもやり、料理教室もできるという、そういう施設がほしいですね。

 

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