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着物着て履く草履の仕事をしました。日本に来たら主人がその仕事をしていて一緒にずっとそこでやっていました。
戦争が終わって、疎開先の名古屋から大阪に帰ってくると、主人が草履の底、芯を作る工場をしていました。その頃停電がよくあり、電気が消えたら遊んで、電気がついたら仕事をしていました。あと、主人が阿部野橋でご飯屋さんをしました。主人はお金を家に入れてくれないから、タバコ、砂糖とか配給物資を売って生計をたてて、親子3人暮らしました。阿部野橋のご飯屋はやっぱりダメだから、主人はまた戻ってきて草履を作りました。草履を作る仕事をしている間は、何とか食べていけました。
お菓子の問屋もしました。当時は秤も使わず、手で量って、そのまま袋にも入れず渡していました。2年くらいしました。引越しして、また草履屋をしました。
主人が45歳で亡くなり、男手がないから草履の工場の仕事がダメになり、機械を売ってちょっとお金にしました大方50歳になって私が、焼肉屋に働きに行きました。焼肉屋は1ヶ所10年くらい勤めました。南巽の店では11年か12年くらい勤めました。76歳まで勤めました。そして、年をとったので辞めました。それでも、厚生年金や保険が無いとこばかりで保険が無いです。今は足が悪くなって何もしていません。それでも、昔ちょっとずつ貯めて、電気代も月800円まで切り詰めたこともありました。 |
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私は日本生まれの日本育ちで仕事をした事が無いです。旦那が死んでから仕事をしました。 |
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シャープの仕事。精密工。今思ったら、小さな品物。数を数えようと思ったら、爪の間に入るくらい小さな物でした。バネを抑える物やったと思います。医療器具とかに使っているし、この前見たらコンピュータに入ってあって、自分はこんなん作ってたんやって思いました。 |
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13年やりました。そこの社長がええ人で、主人が亡くなったと言うたらすぐ社員にしてくれました。年金もらえるぐらい働きました。 |
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ある。休業保障も1年半もらいました。「朝鮮の人たちは法事や何だと言って休むからダメだ」と言うから、私は3年間、皆勤賞をとって信用つけました。 |
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私は離婚したのが今から25年くらい前になります。その前は専業主婦だったけど、ツッカケの内職をし、針子をして針場を作り、針子さん5〜6人おいて私がオーナーをしていました。旦那はタクシーの運転手で全然、家にお金入れてくれず、子ども7人を育てるため針場を約10年しました。 |
| 康: |
離婚して出てきて7人順番に片付けて今は1人。年金は旦那が社会保険に入っていたから、離婚して私が国民保険に変えました。
障害も出てきて障害年金と合体して今、年金もらっている。 |