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李 仁夏 さん
| プロフィール
1925年、韓国生まれ。戦後、日本とカナダで神学を修め、帰国を試みるも果たせず、川崎市を拠点に宣教、福祉と人権の運動に関わる。元日本キリスト教協議会議長。1998年度朝日社会福祉賞受賞。著書に「寄留の民の叫び」「自分を愛するように」等。 |
(多民族共生人権教育センター理事)
「今を生きるとは
−歴史・人権・平和をキーワードに−」
2001年12月17日
2001多民族共生人権研究集会 特別報告 |
冒頭にひとこと申し上げさせていただきたいことは、国家であれ自治体であれ、あるいは企業、教育機関、NGO・NPOであれ、人間組織が自己利益だけを追求した時に、必ず破綻をきたす、ということです。絶えず、みずから自浄作業をやってかないと、みんなの福祉につながる形にはなりません。ただモラルを上からおっかぶせるかたちは、ギスギスして、息苦しくなる。そうじゃなくて、一人一人の命、人権ということを中心に据えてやっていくときに、自ずから力が生まれ、企業体でも運動体でも、生き生きとしていくんじゃないかと考えます。
「今を生きるとは」というのは根源的な問いですが、難しい理論ではなく、自分が生きてきた歴史を、恥部を含めて、語らせていただきます。今世紀のはじめの今年、3月17日は、私にとって在日60周年を心に刻む日でした。朝鮮半島の父の家を離れ、3泊4日の船旅で福井県の敦賀に上陸した時、私は15歳の少年でした。
ちょうど朝鮮での皇民化教育のピークのころです。朝鮮で私のいた中学は、朝鮮総督・南次郎の命令で閉校処分を受けました。創始改名により、私は「岩城政雄」になっておりました。戦前の中学校は小さい兵営であり、教科には軍事教練もありました。しかし上級生が独立の志をもってパルチザンとして抵抗していることが噂されるような校風をもつ学校が、当時、存立する余地はなかったわけです。
日本人の植民地支配は、過酷な支配を実施する一面があるかと思うと、日本人個人の中には、優しく接してくれる人が多くいました。尋常小学校の校長や教師たちがそうでした。日本への渡航証明書を管理していた警察にも、人間らしい顔を持った人がいました。「総督は総督、私は私」と、そこの地方の署長さんが、50名だけ、日本で勉強を続ける道を開いてくれました。国家や組織を越えて、あらゆる時代のあらゆる支配権力構造の担い手にも、人間の顔を見ることができるのは、わたしどもにとって今でも救いでございます。公務員の立場にいながら人権のことを必死になって語る、そういう人間の顔をした人も、いたわけです。
先ほど申し上げたように、敦賀に上陸した50名は、東京と京都に分かれ、私は京都で現在の洛南高校にいくこととなりました。ただ年配で僧侶出身の歴史教師が、公然と「朝鮮を日本が併合したことがどれだけ朝鮮人を幸福にしているか」と語るのには、耐えがたかったです。裏を返せば日本人の優越性を語ることであり、朝鮮人生徒を屈辱に追い込むということを知らない、古いタイプの日本人でありました。のちに朝鮮人に徴兵制度が適用されたとき、南総督は、「朝鮮人が徴兵に応じるのは義務ではなく、『天皇の赤子』として光栄にあずかることだ」と、檄をとばしていたものです。その中で彼が、「おまえら朝鮮人は、インドネシア民族とは違うんだ」という差別的言辞も弄したことが、いまだに記憶に残っています。
第二次世界大戦に突入したのは、渡日した年の12月8日でした。全校生徒が整列させられ、真珠湾攻撃の報告と、「天皇に一命を投じ、奉国の戦士になれ」と檄をとばされ、足がぶるぶる震えたことを覚えています。翌年わたしは級長に任命されました。毎週の軍事訓練では、サーベルをとって指揮をとらされました。サーベルをとるときの優越意識は、被支配民族の一員としていつのまにか内側につくられていた劣等意識の裏返しでしかないのに。私は文字通り、「岩城政雄」というニセモノに仕上がっていました。
私の内側には、今でもそうですが、いいかげんさと気まじめさが同居しています。ある日、下宿のおばさんから、私の留守を川端署の特高刑事が訪れ、17歳の少年の日記帳とノートを査察して帰ったことを知らされました。「この若い朝鮮人、どっか不穏な思想がないか」とチェックをしていたのです。夏休みの帰省で関釜連絡船に乗るたびに、持ち物を検査され、読んでいた心理学の本を特高刑事に取り上げられたこともあります。あの時分、同志社大学の尹東柱(ユン・ドンジュ)という学生が逮捕され、「一点の恥もない」というあの有名な詩を残し、解放前に、福岡の刑務所の露と消えました。私のいいかげんさは、そういう尹東柱のような先輩とも違い、恐怖心が私を「岩城政雄」という人間に徹底化されて、学徒兵出身の配属将校に目をかけられ、中学卒業時に、二人しかいない甲種幹部候補生の推薦すら受けました。
(日本敗戦の)8月15日は醒めた自分を発見し、うろたえました。泣くまねをしました。同じ軍需工場で働く阪大の心ある学生が、朝鮮人解放を祝ってくれたのに、その喜びにもあずかれないという、人間として欠格した自分を発見して、愕然としたのを覚えています。
(2001年)9・11のテロと、反テロの報復戦争の際、人間集団が「聖戦」「正義」、「ジハード」「クルセード」と叫んでいます。そういう、暴力に駆り立てる狂気のような精神に育てられたのが、私の青少年時代だったと思います。「岩城政雄」から脱出して、「李仁夏」という実体を回復するのが、私の今に至る闘いでした。
あとしばらく時間をいただき、自分の歴史をどう解釈するかということについて、みなさんと共有させてください。パキスタン出身の女性学者で、イェール大学教授のスレーリーという人がいます。彼女は、「歴史には二つの物語しかない」と言います。「一つはマスター・ナラティブ(支配者の物語)。二つ目はサブジェクト・ナラティブ(被支配者の物語)。その中間は、ない」と。人類史は古今東西、権力をふるった側の主人の物語です。日本では古事記、日本書紀等がそれにあたるものだろうと思います。従属させられた者の物語は、(書き手は支配者にいるから)、民衆の小咄のようなかたちでしか残らないのです。朝鮮半島に即していえば、1894年の朝鮮王朝の収奪に抵抗していた東学、農民革命戦争は、最近ようやく、名誉を回復しました。ちなみに、この農民軍は「人すなわち天」という今の人権の思想につながる、「東学」の哲学を持っていました。梶村秀樹という優れた歴史学者は「民族内在の歴史」ということを言っています。「皇国史観で朝鮮を見てはいけない、(朝鮮は)むしろ自らの内側において自立できる可能性をもっていた民族だった」というわけです。しかしこの闘いが一般には「乱」と呼ばれています。頼まれてもいない日本軍が王宮を占領し、農民軍約5万人を虐殺したのです。革命軍でない者も、殺されました。それが原因で日清戦争となり、近代日本のアジア侵略の始まりとなりました。この歴史をマスターの立場で書いたのが、皇国史観です。
戦後の平和憲法は侵略を否定したのに、「大東亜戦争はアジア解放戦争だった」という歴史教科書の問題が、1982年に続き昨年から再び台頭して、私どもを苦しめました。アジア、特に韓国朝鮮中国の猛反発の背景には、侵略されてしまった記憶をもつ人たちが、いま生存しているということがあります。これらの国の教科書にも問題はあります。例えば韓国の教科書に、関東大震災の時の朝鮮人虐殺の悲劇は載っていません。しかし、侵略する側とされる側の問題を平面で相殺することはできないのです。今回の教科書問題では、日本人が見事にその良識を発揮しました。少なくとも歴史にある二つの物語の真相を知ったからではないでしょうか。
南アフリカ共和国が、少数の白人に支配されていた時、日本人は「名誉白人」であることを喜びました。しかしその晩年に、経済急進国だった韓国人もそう呼ばれたらしいです。どんな人間も、マスター(支配)をめざす途上では、弱者の姿は見えないのです。歴史の不条理で、再生産される人種・民族・性・門地・障害者差別は、歴史における二つの物語をしっかり学ばないと、これを克服することはできません。人権学習問題は、やられる側に光をあててみたときに、みなさんが今生きる意味が明らかにされると思います。戦争と紛争のないことを平和と言うわけではないのです。差別と貧困が放置される状態は、平和ではありません。く戦争を未然にふせぐことも平和の営みだと私は思います。
9・11以来、私どもの目は一斉にアフガニスタンに向いております。昨年分断された南北朝鮮の首脳が握手をしましたが、アメリカと日本は無視している。今の日本の政権は、日朝国交には目もくれません。北東アジアが平和であってこそ、われわれの人権がきっちり守られるのではないでしょうか。教科書問題の決着とは裏腹に、日本は国際協力というかたちで自衛官すら派遣しています。北東アジアの平和を考えるアジアの人々と、在日の少数者は、「反日」を考えます。でも私は日本に住んでいます。みなさんと一緒に飯を食おうとしています。ただ、北東アジア全体の平和を考えると、日本の今が心配だから、反日ではなく、友日(ゆうにち)という言葉を使わせていただきたい。これから手をつないで、本当の意味で平和で、人権のベースのある北東アジアを築くために、一緒に進んでいこうではありませんか。
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