多民族共生人権教育センター
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ペ 薫 さん

(弁護士)

「多民族共生への道」

2002年4月26日
多民族共生人権教育センター 第3回総会記念講演

 僕は1953年の3月、朝鮮戦争の頃に山口県の下関で生まれました。滋賀県の大津市、石山に移って、そこで大学を卒業して仕事をするまで生活しました。父親はかつて朝鮮人連盟という所で学校の先生をしていましたが、辞めて、いわゆる古鉄業をしていました。滋賀に来てからはダンプの運転手をして、母親は焼肉屋をして、子ども6人を育てたという、典型的な在日の家庭でした。僕自身は民族教育を受けたことはなく、小学校から大学までずっと日本の学校です。家庭で民族教育のような意識的な教育を受けたこともありません。当然家でキムチやテンジャンチゲを食べたりはしましたが、親が意識的に言葉や歴史、文化を教えたりということはありませんでした。名前も「武本」という、創氏改名の時につけた名前を、そのまま通名として使っていました。しかしあえて朝鮮人であるということを隠すことはありませんでした。小学校低学年の頃は特に差別にもあわず、旧正月に友達を呼んでご馳走を食べさせてあげたりもしていました。自分は朝鮮人だと知っているけど、何の違和感もなく育ったんです。

 ところが小学校高学年になると、ひそひそ話が始まります。親しい友達の一人が「あいつは朝鮮人だ」と別の友達に言っている。なぜそんなことを言う必要があるのかと思いました。学校では、朝鮮人というのはタブーみたいな感じで、何も教えません。おそらくその友だちは親の影響で「あ、朝鮮人だ」と言ったのでしょう。さすがの僕も落ち込みました。今でこそ本名で弁護士をやっていますけども、特に僕が民族的なエリート教育を受けたわけではなくて、在日の圧倒的多数の人と同じような経験をしています。小学校の高学年くらいから、自分が朝鮮人であるということをすごく意識しだしました。それと同時に隠そうとして、中学・高校と消極的な時代がずっと続きました。

裴薫さんの写真 一つの契機となったのが、高3の時です。親しい友達が遊びにきた時、家に朝鮮の人形を飾ってたんです。友達が「あの人形なんや」と聞くんです。ドキッとして、思わず「自分のところの人形じゃない」と言ってしまった。結局その友人には自分が朝鮮人であることを告白します。その際、すごいプレッシャーを感じ、心臓はドキドキするわ、顔は真っ赤になるわ、何か罪を告白するような感じでした。でも伝えたことで友達との関係がつぶれたわけではありませんでした。もう一つその頃、「戦争と人間」という、十五年戦争を描いた映画がありまして、仲のいい友達と観に行ったんです。映画に、いわゆる抗日パルチザンが関東軍と戦うシーンがあって、朝鮮語をしゃべってるんです。その時、自分は朝鮮人なのに黙っているのが耐えられなくなり、帰りの電車の中で、「実は俺は朝鮮人だ」と告白しました。すると彼が、僕の方に向かって指を差し出して、「実は武本、俺はこれや」と言ったんです。僕はこの4つの指が示すことが分からなかった。彼はいわゆる部落出身者だったということなんですけれど、彼も高校の時に告白したのは僕だけだったそうです。自分の「民族」の問題以外にそういう問題があるのか、と思いました。

 そういうことが契機となって大学から本名で行きました。ペは日本語では「はい」と読むので、大学には「はい」で登録しました。でも親しい友人は皆、「ぺ」と呼んでくれました。大学に入って初めて、同じ立場の朝鮮人と出会いました。京都大学の同期に13人いて、そのうちの何人かが韓国文化研究会とか、朝鮮文化研究会に入っていて、僕も顔を出すようになりました。その中で朝鮮半島の歴史を勉強したり、片言の言葉や歌を勉強したりして、ようやく精神状態が冷静になってきた。だから現在の僕のバックボーンはその頃にほとんど形成されたと思うんです。

 ほとんど大学の授業に出ず、そういう世界にどっぷりつかって、就職活動をしませんでした。友人達にはダンボール2箱分くらいの資料が送られてくるんですけれども、僕のところには何も来ない。同期13人の圧倒的多数は家業を継ぐ。それで僕自身、最初から就職はないと思っていました。調べた結果、公認会計士の資格は日本人でもなくても取れるとわかり、簿記の本で勉強して会計士の2次試験に通って、その仕事をしました。でもどうも性分として会計監査が肌に合わない、と思っていた頃、東京の金敬得さんが「在日」で初めて司法修習生になられたのを知り、弁護士になろうかと思いました。

 司法試験の勉強を独学で始め、人権の思想を知って、素晴らしいと思いました。ある意味で、人類の知恵の結晶ですよね。世界共通の価値観だし、どんどん広がっている。弁護士というのは正しい選択だったと思って、勉強を続けました。

 弁護士になる前の司法修習生の時、貴重な経験をしています。日本全国から性別、年齢、キャリアの違う500人が集まって研修を受けるんですが、そこに本当にユニークな問題意識を持った人達がいたのです。たとえば熊本大の学生が、水俣病の事件がどれだけ水俣の人たちの人権を侵害しているかということを訴えるんです。かたや福井の人たちは反原発の問題、東北大学の学生は松山事件という冤罪事件を一生懸命がんばるのです。僕はそれまで日本は平和で、在日の民族差別と同和の差別と男女差別くらいしかないと思っていたのですが、ものすごくいっぱいあったのです。社会にこれだけ差別や偏見があるということを知らされ、毎日目から鱗が落ちるようでした。そこで自分の在日問題に対する視点が変わりました。どう変わったかというと、歴史上たくさんある問題を、役割分担しつつ、我々が受け継いで次の世代にバトンタッチしていこうということです。

 弁護士になった直後に韓国に留学しました。なぜかというと、自分は韓国人だけれど、韓国語を話せないし文化を知らない。韓国人とはどういう人たちなのか、本名で弁護士になる僕はこれから日本社会でどういうふうに発言すればいいのかを考えようと思ったからです。まず言葉を覚えて、韓国のいろんな人達とつきあいました。つくづく感じたことは、「とてもじゃないけど、在日の人たちが韓国に帰って生活することはできないだろう」ということでした。韓国語が話せない、習慣などいろんなことが違う、日本人と同じ言葉をしゃべっている、ということで在日への差別があるのです。
韓国に留学して、韓国人だということがふっきれて、目から鱗が落ちて、肩の荷が降りました。在日のおそらく99パーセントは日本で生活して亡くなっていく。要は、その中でどういう形ですばらしい社会をこの日本でつくっていけばいいのかということを個別に、微力ではあるけれど実践していこうと思うようになりました。

 国籍や民族の点でいうと僕はマイノリティです。ところが社会的地位や学歴ということでは、僕はマイノリティではないんです。男性ということでも強者です。そういうことを分析していくと、最初から最後まで強者という人はほとんどいないはずです。

 子どもの人権問題、老人差別がありますよね。身体や精神の障害があったり、お金持ちでなかったり、皆どこかでマイノリティなのです。ところがマイノリティがその分野で人権侵害を主張して闘っていたとしても、他の問題でそのようなことに気づいて、自分の行動を是正することができるかというと、実際のところ、なかなかできないのです。
僕は後輩達に、「民族問題だけではダメで、少なくとももう一つか二つは他の人権問題に関わらないと深みが出てこない。どんな問題であっても必ず協働できる」と言います。

 僕には子どもが3人います。前は3人とも建国という民族学校に通わせていたんですけれど、富田林に引っ越した関係で、下の子どもは近所の小学校に入れたんです。そうしますと、下の子は、母親が学校にチマチョゴリを着ていくことを「絶対やめてくれ」と言い出しました。その子は学校で、「おい、外国人がおるぞ」と、宇宙人のように見に来られていたんです。小学1年生が高学年の人たちに見に来られたら、萎縮しますよね。心配した母親が、民族的なことを学校の行事に入れてもらったりしました。その萎縮がとれたのは、「正月のおもちゃ」というテーマで皆で遊んだ時です。韓国にはペンイというコマがあるんです。日本人の子どもは慣れてないからできないのです。ところがその子は建国(幼稚園)の時からやっていますから、うまい。だから得意気にそれをまわしました。そうすると、友達が「韓国人って頭いいな」と言ったと言うのです。それで自信を持ったのでしょう。サッカークラブに入ったりして、「ぺ」という韓国人がいることが当たり前になりました。皆、もう慣れてしまったということです。

 僕も同じようなことを何度も経験しています。公認会計士の頃、当時僕は「はい」と名乗っていたんですが、監査に行った先の人に、「はいさんは元々、中国の人?」と聞かれました。僕が「韓国人ですよ」というと、「今も韓国人ですか?」と聞く。「そうです」というと、次は「奥さんは日本人ですか?」と聞くんです。なんとしてでも日本とのつながりをもたないと、落ち着かないんでしょう。でも慣れてないんです。慣れてしまったらどうってことないんです。大阪弁護士会に入った時、僕が韓国人で2人目だったのですけど、やっぱり皆、「どんな人間や」と思うわけですよ。日本語も上手だし、阪神ファンですし、結局、慣れてもらったら同じ人間やということが分かるのだけれども、そこまでなかなか至らないわけです。

熱心に話を聴く参加者の写真 僕は子どもたちに多少なりとも韓国語を教えます。家では「アッパ」「オンマ」と呼びますし、韓国の文化的なことも教えます。なぜかというと、子どもの幸せにとって必要だということに尽きるんです。一世は一生懸命日本語を覚えたんですよね。そうしないと日本で生きていけなかったからです。共通しているのは、「どうしたら自分が幸せにこの地で生きていけるか」ということです。個人個人がどうしたら幸せになれるかということを、いろんな条件の中で考えている。自分なり家族なり友達なりが、どうしたら幸せに生きていけるかということを考えて行動したものを、後世の人達が見た時に、「これがこの民族の民族性・文化だ」というだけのことです。だから一人一人の幸福追求をいかにしてサポートできるか、これに尽きると思うのです。

 結局、僕自身が韓国人の父母をもって、なおかつ2世で生まれたというのは、一つの属性なんです。僕自身のアイデンティティの中の一部です。全部じゃないのです。アメリカの黒人運動では既に、共通の黒人運動が組めないという状況です。かたや大金持ちや、マイケル・ジョーダンのようなヒーローも生まれていますから、共通の何かでくくろうとすれば、もはや無理があります。在日も同じことで、「これこそ民族の本質」という絶対的なものは、もうないと思うのです。多少感じるのは、個人の尊厳の一つのしるしであるところの名前と意識。それしか残ってないという気がするんです。

 韓国に留学した時、そこにはアメリカのコリアン2世、3世達、中国の朝鮮族も来ていました。アメリカには100万人くらい、中国には200万人くらいいるらしいですけど、両方とも韓国語が上手いんです。まずは、中国朝鮮族の人達は自治区を持っていて、学校もある。家庭内も全部朝鮮語で話すのです。アメリカのコリアンタウンに行くと、みんな韓国語で話すし、放送局もあるし、弁護士も3000人程いるというのです。アメリカの2世3世も中国朝鮮族も、自分達はアメリカ人だ、中国人だ、と言います。在日だけが「私達は韓国人」と言うのです。だから、何十年も国籍を維持したままその国に留まっているというのは在日しかいない、ということに、在日も気づき始めています。結局国籍というのは、本籍地がどこだったかということです。本籍地に意味がありますか? どこでも変えられますよね。大阪が本籍地でも京都に変えられるし、変わっても何の権利も制限されないし、義務も課されない。おそらく国籍というのも、徐々にそうなっていくと思います。

 僕は国政レベルの参政権も外国人にも認めるべきだという考えです。同じ法律を平等に受けるのであれば、それに対してYes, Noをいえるような保障がないとだめだし、その理屈からいうと当然に参政権を持ってしかるべきだと思います。内閣総理大臣を僕がやろうが外務大臣をやろうが、国民がその人を選んだなら問題がないのです。本籍地が大阪府の人が東京都知事になって問題ありますか。だから固定観念を吹っ切って、根本から考えるとそういう結論になってくるのです。

 人権とは結局、その時代、時代で「何をすれば幸せか、何をすれば自分たちの生活が守られるか」に尽きるのです。1700年代後半のフランスの人権宣言やアメリカ独立戦争の時の宣言文に、「幸福追求」という言葉が出てきます。そこで言われていた権利は「自由権」だけです。自由権というのは、「政府や国が余計なことをするな」というものです。言論の自由や結社の自由というものです。最初に生まれたのが自由権ですけども、その後、圧倒的に貧しい多数の労働者と一部の資本家との間で激烈な闘いが起こりました。その時に出てきたのが、労働権や教育を受ける権利などの「社会権」です。人権も進化していっているのです。それはなぜかというと、環境が変わっているからです。「何をすれば自分たちが幸せになれるか」を皆考えるわけです。だから今、憲法にない新しい人権、例えば「プライバシーの権利」が出てきている。そういう人権を誰がつくるかというと、学者でも弁護士でもない。その人権を侵害された人たちが声をあげるわけです。

 「地方自治体の外国人参政権を認めよ」という裁判をしても、最初は全敗でした。保守的な裁判官は認めません。ところが最近、「少なくとも憲法上は、地方参政権を禁止していない」という判決が出た。僕もびっくりしましたが、一歩前進したのです。一方で、多数の自治体が地方参政権に賛成しています。おそらく立法の方になると思いますが、参政権にしろ、国籍取得にしろ、これから変わっていくだろうと思います。

 結局のところは多民族共生への道というのは「基本的人権の尊重」しかないと思います。自分の都合の良いところだけ「人権の尊重」で、かたや自分は別の人権を侵害しているというのは、よくあります。そうならないようにして、多民族共生への道を探っていく。基本的な方向としてはそういうことを考えています。

 

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