多民族共生人権教育センター
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内海 愛子 さん

内海愛子さんの写真プロフィール

1941年東京生まれ。1967年、早稲大学文学部卒業。現在、恵泉女学園大学教授。
著書に『戦後補償から考える日本とアジア』(山川出版社)、『朝鮮人BC級戦犯の記録』
(勁草書房)などがある。

(恵泉女学園大学教授)

「戦後補償裁判と韓国人 なぜ韓国人が戦犯になったのか 〜個人の責任〜」

2002年6月24日
2002年度第1回 多民族共生人権啓発セミナー

 「私は貝になりたい」という、元捕虜収容所長の手記をもとに橋本忍さんが脚本を書いた作品をご覧になった方もいらっしゃるかと思います。BC級戦犯として処刑される床屋さんを主人公にした作品です。一般に、戦犯という言葉から東条英機ら東京裁判で裁かれたA級戦犯の人たちを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。もうひとつの裁判がありました。5,700人が裁かれ、1,000人近くが処刑されたいわゆるBC級戦犯裁判です。そこで問われた戦争犯罪とは何なのか。今日は、50年前の戦争裁判を、現在の私たちの生き方と関連させながらお話ししたいと思います。(今日の参加者は)企業や官庁の中で働いている人が中心と聞きましたので、あえて、組織の中の「個人の責任」というタイトルにしました。BC級戦犯裁判のなかで厳しく問われたのがその問題です。最初にビデオ(※)を見ていただきます。

(※)「趙文相の遺書」(1991年8月15日NHKスペシャル)。朝鮮人軍属は、植民地下で徴兵され、日本軍の末端で働いた人々である。泰緬(たいめん)鉄道の建設現場で通訳として働いた趙文相(チョウ・ムンサン)さんは、戦後、捕虜虐待を問われシンガポールで死刑にされた。李鶴来(イ・ハンネ)さんもまた、泰緬鉄道の現場で捕虜監視員として働き、戦犯として死刑判決を受けたが、その後減刑され、日本に住む。李鶴来さんらは、元BC級戦犯として刑死した仲間や戦犯として拘禁された歳月への補償を求める裁判を起こした。日本人戦犯は援護の対象なのに、植民地出身者には何も援護がないのが理由だ。彼らは、韓国でも「親日派」と見なされて受け入れられていない。
 元連合国捕虜は今なお、泰緬鉄道建設において非人道的に扱われ、死者も多数でたことから日本に憎しみを持つが、その憎しみの全面に立たされたのが、捕虜の監視役にされた朝鮮人軍属だった。
 趙文相さんは、祖国が解放されたのに、日本軍の軍属として死刑になった。彼は自分の死をどのように自分に納得させていたのか。シンガポ−ルのチャンギー刑務所で彼は長い遺書を書いた。兄弟に「借り物ではない、自分の思想」をもつことを訴えていた。「この世よ幸あれ」。これが遺書の結びである。

戦犯裁判の焦点だった捕虜虐待

熱心に話に耳を傾ける受講者の写真 朝鮮半島での捕虜監視員の募集は、1942年5月からです。徴兵制が敷かれることが決まった時でしたから、兵隊にとられたくない人、炭坑にとられるぐらいならと応募した人など、さまざまでした。道路工事で旗をふる程度の仕事だと思っていた人もいます。配給をとめると脅しをかけられ、志願という形をとった強制の場合もありました。朝鮮人の捕虜監視員、約3,000人の中から129人が戦犯になっています。こんなに高い戦犯比率を出した日本の部隊は他にありません。
 なぜこの人達が戦犯になったか。キーワードは「捕虜」です。日本が受諾したポツダム宣言の中に「われらの捕虜を虐待せるものを含むあらゆる日本の戦争犯罪は、これを厳しく裁く」とあります。この宣言の受諾が東京裁判やBC級戦犯裁判の根拠でしたが、その時に連合国の念頭にあったのが日本軍の捕虜虐待でした。ナチスに捕まった英米の捕虜の死亡率は4%弱だったのに対し、日本軍に捕まった連合軍捕虜の死亡率は27%です。こうした犠牲が戦争犯罪として裁かれたのです。その中心の一つが泰緬鉄道です。
 ジュネーブ条約は捕虜の取り扱いをきめた条約ですが、日本は批准しませんでした。開戦と同時に米英がジュネーブ条約を守るよう言ってきた時、日本側は「準用する」との回答を送っています。しかし、日本軍兵士はジュネーブ条約について何も教えられませんでした。実際に捕虜を扱った最末端の李鶴来さん達は、ジュネーブ条約の「ジュ」の字も聞いたことがなかったのです。教えられたのは、捕虜になってはいけないという有名な「戦陣訓」です。

なぜ、朝鮮人軍属が多く摘発されたのか

 日本が釜山で朝鮮人軍属らを教育した時に、趙文相が話していたように「体の大きい捕虜に立ち向かうには、暴力しかない」という教育がなされたのも事実でしょう。趙文相も捕虜を殴ったことは認めています。ビンタぐらいはしたといっています。それで死刑です。
 戦後、連合国は、捕虜一人ひとりに、「目撃した虐待」「自分の体験した虐待行為」「誰がやったか」を調査する質問票を配っています。趙文相のように通訳をやっていた人は目につきました。捕虜の多くは日本兵の名前を覚えられないので、あだ名でも告発しました。

苛酷を極めた泰緬鉄道の建設現場

 泰緬鉄道の現場では、常時、多い時は捕虜の60%以上が患者でした。雨季の泰緬鉄道では補給が途絶えました。一番困ったのは靴です。裸足で線路のバラストの上を歩くとケガをして、熱帯性潰瘍になる。肉が腐っていくのです。靴があればずいぶんと防げた。現在、オーストラリアにいる元捕虜は言っていました。「僕が日本人を許せないのは、死んでいった捕虜のことがあるからだ。病人は医薬品もなく、死ぬのを待つだけの隔離病棟に入れられる。誰もやりたがらないので、自分が病棟の勤務をした。仲間が人間としての最低限のケアもされずに、垂れ流しの状態で苦痛の中で死んでいく。絶望的な眼差しで、自分に救いを求めるが、何もできなかった。あの眼差しを思い出すと、私はどうしても日本人を許せない」と。そして私に、「あなたたちに絶対にわかってもらえないのは、ジャングルの中にたちこめたあの匂いだ」と言いました。タイの雨季は土砂降りの雨が降り続きます。その中で、肉が腐る熱帯性潰瘍患者。軍医が来ても、やれることは、腐った肉を掻き出すことだけ。麻酔もなく、ものすごく痛いのだそうです。軍医が部屋に入ってきただけで、病人が絶叫する。ジャングルの現場にはそういう実態があったのです。医薬品さえあれば防げたことです。
 本当に物資がなく、補給ができなかったのか、捕虜収容所の副官にインタビューしました。バンコックには食料が山のようにあったが、補給する手段がなかったということです。雨期の川ははじめの一ヶ月は危険で遡航できない、にわかづくりの道路ではトラック輸送もできない。要するに計画がずさんだったと言われても仕方がない状態でした。そのしわ寄せは、現場にいたアジア人労働者や捕虜、そして鉄道隊の現場責任者、そこに捕虜を提供していた捕虜収容所にきたのです。

個人としての責任

 李鶴来さんは鉄道隊に要求されて、症状の軽い病人の捕虜を使役に出しました。病人を除くと必要な人数が出せない。朝鮮人軍属の仕事は、要求された人員を出すことと、捕虜を食べさせ、医薬品を供給することでした。食料も医薬品もが不足し、捕虜の死亡や病気が続出するなかでも鉄道建設は続きます。「捕虜が全員倒れてもかまわん。全力を尽くして鉄道建設に邁進しろ」とハッパをかけた連隊長もいたほどです。しかし病気の捕虜を働かせた責任、その中での虐待が、捕虜収容所に重くのしかかってきました。捕虜収容所は日本軍の機構の中で権限のないところでした。現場では色々な工夫をしましたが、結果的には多くの捕虜を死亡させてしまった。
 「個人として、いったいどこまで責任をとるのか」、一つの問題です。捕虜収容所長が管理責任を問われるのは当然ですが、最末端の捕虜監視員にも責任が重く問われました。私達も、組織の中で動いていると、自分の意志に反する上からの命令や指示を実行しなければならない時があります。命令に抗することは、平和なときなら配転かクビですむでしょうが、軍隊では命を懸けた選択です。拷問や軍法会議を覚悟しての抵抗がどれだけ出来るでしょうか。

「違法な命令には従わなくてよい」

 戦争裁判では、実行した責任が問われます。命令によることの考慮はありましたが、実行責任です。真面目な李鶴来さんは、鉄道隊の要請に、症状の軽い者を送り出した。「苦しんでいる捕虜に、さらにその苦しみに追い打ちをかけた」李さんたちの行為は憎しみの対象となりました。その個人の責任はあくまでも追及されるのです。「戦争だから仕方がなかった」という言い訳は通用しません。
 東京裁判とBC級裁判から、私たちは何を学んできたでしょうか。東京裁判の判事であったオランダのレーリングは、「東京裁判からもし、唯一学ぶ事があるとすれば、『違法な命令には従わなくていい』と示してくれたことだ。上役の命令が理不尽であった場合、国際法や国内法に照らして私たちがこれを拒否できる、拒否しなければならない、と示したのが東京裁判であり、BC級戦犯裁判ではないか」と、東京でのシンポジウムで話していました。

日本人として裁かれ、援護は国籍で拒否

会場風景の写真 1991年の11月12日、李鶴来さんらが中心となって、日本政府に補償と謝罪をもとめる裁判をします。趙文相は「日本人」として裁かれ、処刑されました。しかしサンフランシスコ講和条約が発効して、彼らは日本国籍を離脱したとみなされました。サンフランシスコ講和条約では、戦争裁判について「日本国民の刑の執行を引き継ぐ」と明記されている。「日本国民」が対象でした。それなら、サンフランシスコ講和条約が発効すれば、朝鮮人・台湾人は日本国民でなくなり、拘留される理由はない。ところが、拘留は続きました。一方で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」ができると、「国籍条項」で朝鮮人ははずされました。刑は「日本人」として「平等」に引き受けさせられ、援護の対象からははずされた。一体自分たちの死は何のため誰のためだったのか、彼らは、「戦犯」というこの言葉の前に懊悩(おうのう)しました。ぼろ切れのように自分たちを使い、切り捨てた日本政府を恨みました。

知って欲しい、戦後補償裁判

 彼らは、「もう怖いものは何もない」と、勢いがある運動をやる。首相官邸の塀をのりこえて、首相に面会を申し込む。法務大臣と談判するような運動をやっています。そうすると、「見舞い金」を出しましょうと、多少のお金は出る。しかし、抜本的な政策はありませんでした。日韓条約ができると、「条約ですべて解決済み」と門前払いです。1991年の裁判は、最高裁までいって負けました。結局「彼らの境遇には深く同情するけれども、これは国会、行政が決めることなので、司法では何とも致しかたがない」という判決でした。それでは、朝鮮人BC級戦犯への謝罪と補償を求める特別立法を何とかできないだろうかということで動いています。

戦争被害者の声にどう応えるか

 原告は、ほとんど亡くなっています。李鶴来さんは17歳で戦争に行って、今78歳です。その彼も「僕は今年いっぱいで運動をやめたい」と言っている。植民地の人たちを戦犯として裁いたのは連合国です。しかし、李鶴来さんは言います。「僕は連合国に、文句を言いたいとは思わない。捕虜がひどい目にあったのは事実で、その心情は理解ができるから。裁判がひどいと思っても、連合国に文句は言わない。絶対に文句を言いたいのは日本政府だ。自分たちを徴用して使っておいて、いらなくなったらボロ雑巾のように捨てて、そのまま知らぬ存ぜぬ、それはないだろう、人間らしい言葉の一言もなぜかけられないのか」。李さんらがこだわっている問題です。
 組織の中に生きる人間として、板挟みになったり意に染まぬことをたびたび経験すると、その責任が問われたBC級戦犯の人たちの思いが、幾分かでも理解できるかもしれません。しかも、自分たちをそうした状態に置いたまま日本政府が知らん顔をしていることへの腹立たしさ、悔しさが、李鶴来さんたちの言葉の中ににじんできます。しかし、彼らは運動を通して、植民地時代に築かれた過去の関係を克服し、日本政府そして日本人と新たな関係を作り出そうとしているとも言えるでしょう。それを邪険に振り払ってきたのが日本政府ではないでしょうか。では、彼らBC級戦犯のみならずアジアの戦争被害者のさしのべる手にひとりひとりがどのように応えることができるのか、それぞれが考え、応えていく道を探っていくことが求められているのではないでしょうか。

 

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