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安藤 幸一 さん
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プロフィール
1950年生まれ。大学卒業後、サンフランシスコ州立大学教育学部大学院で他文化間教育を学ぶ。サンフランシスコ公立学校区日英バイリンガル教育プログラム助教師、アジア系コミュニティー等の活動に関わる。ハワイ大学日本語教師を経て1989年からウエスタンオレゴン大学助教授兼国際教育部ディレクターとして世界20数カ国からやってくる留学生のアドバイザーを務める。現在、大手前大学社会文化学部助教授・海外留学委員長。
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(大手前大学助教授)
「コリア系市民運動の創出
〜日系アメリカ人運動から学ぶもの〜」
2003年4月21日
多民族共生人権教育センター「企業学習会」
第3回総会 記念講演
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私は多数派の日本人だった 〜違う文化から「自分」が見えてきた〜
私は、大学卒業後1974年にアメリカに渡り24年間暮らし1998年に帰国しました。おそらくその経験の中での最大の収穫は、日本人である自分を客観的に観る立場にたてたことだろうと思います。公民権運動の強い影響を受けた日系アメリカ人三世が、自らの民族コミュニティー再生に目を向け始めたちょうどその時期に渡米し、彼らの運動に関わる中で、自分が日本においては「多数派の日本人であった」ということがわかってきたのです。日本にいた時はもちろん考えたこともないことです。アメリカでマイノリティの人たちと一緒に活動する中で、腹の底で何かその辺のところがわかり始めたような気がします。
日本が、多民族・多文化を活力と考える社会になっていけば、多数派日本人も自分がよく見えてくると思うのです。異文化は自文化を映し出す鏡です。たとえば、男の人だけの社会では「男の文化」の存在に気付きません。この会場にも企業の人権担当の方が来られているわけですが、ご覧のように全員男性です。こうして人権の問題を男性だけを前にお話しすることは、ある意味私にとっての「異文化」体験です。おそらくアメリカでこうした集まりをすれば女性が半分以上を占めるのが普通だからです。こうしたサブカルチャーまで含めた多文化共生社会をめざすために、今日はアメリカのマイノリティ運動についてお話ししたいと思います。
コリアンアメリカンと在日コリアン
日系アメリカ人は、アメリカで100年以上の歴史をもつ民族マイノリティグループです。在日コリアンも100年近い歴史をもつ日本最大の民族マイノリティであり、互いに多くの共通点のある歴史を刻んできたグループです。ただ、出生地主義のアメリカではアメリカで生まれた二世や三世は、生まれたときから市民でありしたがってアメリカ国籍を持っています。それにも関わらず、日系二世は厳しい差別の時代の中、アメリカ軍に志願し「アメリカ人」であることを証明しなくてはならない世代でした。日系三世は公民権運動の強い影響を受け、自らの民族的ルーツに誇りを持ち「アジア系アメリカ人」としてのアイデンティティを確立した世代であったと言うことができると思います。こうして、まず「アメリカ人」であることを前提に発想することがアメリカにおけるマイノリティの特長です。韓国からアメリカに移住する人、そしてそのアメリカ生まれの子どもや孫の世代が増えていますが、彼らも自らをコリア系アメリカ人として暮らしています。在米コリアンとは言いません。ところが、翻って日本に住む韓国・朝鮮人は、第三、第四世代になっても「在日コリアン」です。在日とは、もともとは短期・不定期に日本に滞在するという意味に他なりません。これには、もちろん日本が血統主義の国であり、たとえ日本で生まれても帰化しない限り「日本人」にはなれないという法律的な問題がその根本にあります。しかし、同じ民族グループが、その移住した先の国によっては、コリア系「アメリカ人」として暮らし、一方では自らを「在日」コリアンと呼び続けているという厳然たる差異は私たちに多くのことを考えさせずにはおきません。私も在日コリアンの住む日本の多数派の一員として、このことをしっかりと自分自身の問題として考えていかねばと思っています。
アメリカの公民権運動
日系アメリカ人三世に大きな影響を与えた公民権運動のことからお話ししていきたいと思います。アメリカでは人権にあたるヒューマン・ライツという言葉は外国の独裁政権などによる人権侵害の時などに多く用います。国内の差別問題などについてはシビル・ライツ、日本語訳で公民権という言葉を使います。1960年代に南部の黒人によって始められた人種差別撤廃運動が公民権運動と呼ばれます。公民権とは民主主義の主体である市民の権利という意味です。1964年には公民権法が制定されました。これは、雇用、公共施設、学校等での人種、出身地、宗教、性別などによる差別禁止を明記した歴史的な法律でした。人を雇う際に、日本では年齢を問うことは法に触れません。アメリカで、これが合法である州はありません。公民権法と同時期に成立した年齢による差別を禁じる法律があるからです。差別のもとになることを一切聞いてはいけないというのが雇用の際の原則となっています。
アファーマティブ・アクション
しかし、いくら法律で差別を禁止したといっても実際にそれが守られなければ何の意味もありません。たとえば、日本でも男女雇用機会均等法がありますが、具体的な罰則があるわけではありません。アメリカでは公民権運動の発布された翌1965年に大統領命令として、この罰則規定を含んだアファーマティブ・アクションが公布されます。これは、連邦政府と一定額以上の契約のある企業が、たとえば女性、黒人など人種マイノリティを何%雇用といった具体的な数値目標を定め、その地域の事情に見合った雇用運用を行うよう指導したものです。その目標に達しなかったことが意図的であった場合は、政府はその企業と翌年の契約をしないことになります。公共事業の契約を失うわけですから企業は大きな影響を受けることになります。政府との契約を多く抱えた大企業をはじめとしたこうした動きが、アメリカ全体の「結果としての平等」を推し進めたと言えます。実は、80年代後半からこのアファーマティブ・アクションに対する大きな反発が、主に白人男性層から出てきており、カリフォルニア州などでは、近年州民投票でこの廃棄案が可決されるという事態に陥っているのですが、そのことについては、又別の機会にお話ししたいと思います。
一世とその子孫による日系アメリカ人社会
公民権運動は、アジア系アメリカ人にも大きな影響を与えました。私は主に日系アメリカ人三世の人たちと一緒に色々な運動に関わったのですが、私自身は、たとえ移民第一世代であっても「一世」とは呼ばれません。一世というのは日系人にとって特別な歴史的意味を持ち、三世にとっては深い尊敬をもって接する自らの祖父母のことなのです。
19世紀後半から20世紀初期にかけて、毎年3万人もの若者がアメリカに渡りました。一旗上げて故郷に錦を飾るつもりで渡米した多くの若い男性労働者は、この厳しい環境の中で日本の「お見合い」に範をとった写真結婚によって日本の女性と結婚するという道を見つけます。1908年には紳士協定により労働移民は禁止されますが、家族の呼び寄せは許されていた為、毎年一万人におよぶ日本女性が太平洋を渡ってアメリカにやってきました。その後1924年の差別的移民法によって日本からの移民が全面的に禁止されます。しかしそれ以前に渡米した「一旗組」の男性と「写真花嫁」の女性が結婚し家庭をもつことによって、日系社会のパイオニア一世が生まれたのです。アメリカにおける「一世」とは、こうして1924年以前に渡米した日系移民のことをさす言葉です。その後第二次大戦を経て、移民が再開される1952年まで28年という長期にわたって日本からの移民は途絶えることになります。そうした歴史的条件の下で、一世とそのアメリカ生まれの子ども達二世、そして孫の三世という一系の家族による日系社会が形作られていったのです。
公民権運動の影響 〜日系二世から三世の時代へ〜
二世が成長していく時代、1941年に日本の真珠湾攻撃により日米が開戦し、その2ヵ月後に時のルーズベルト大統領は、西海岸に住む12万におよぶ日系人を強制収容する大統領命令に署名します。収容された日系人の3分の2はアメリカ生まれのアメリカ市民である二世でした。しかし、彼らの多くは「アメリカ人」であることを証明する為に、軍隊に志願しヨーロッパ戦線で闘います。何とかメインストリーム社会に同化しようと命をかけて努力した世代が二世であったと言えます。こうした人種差別の厳しい時代には、自然と二世同士が結婚することが多くなります。三世とは、こうした二世の両親の間に主に戦後誕生し、公民権運動がもっとも盛んであった60年代後半から70年代にかけて大学生になった世代です。「ブラック・イズ・ビューティフル」というスローガンに端的に表されているように、自らのルーツに強い誇りを持つ公民権運動から圧倒的な影響を受けた三世は、アジア系「アメリカ人」としてのアイデンティティを確立していきます。ここにおいて初めて、単にアメリカ生まれだから自然に与えられたのではない、思想としての日系「アメリカ人」が誕生したのです。
マイノリティ運動としてのバイリンガル教育
日系三世は、ほとんどがリチャードとかキャシーといった英語の名前をもっています。厳しい人種差別を体験し、「アメリカ」への同化の努力を続けた二世の親は、三世の子ども達に英語の名前をつけ日本語を教えようとはしませんでした。その結果、日本語を話せず自らの祖父母である一世と自由に会話をすることもできなくなった三世は、四世の子ども達には自分たちの民族ルーツの言葉を学びその文化に誇りをもってほしいと考えるようになりました。そういう中で生まれてきたのが、日本語と英語で授業をするバイリンガルスクールです。もちろん、それまでもプライベートの日本語学校はあったのですが、1973年にサンフランシスコに作られた日英バイリンガル教育プログラムは、公立小学校に作られたという意味で歴史的な意味をもっています。日本でいえば朝鮮初級学校が大阪市立小学校の一部になったということに相当します。すでに英語を母語とする日系アメリカ人の子どもたちに、公立学校で日本語も教えようとするこのプログラムに対する一般アメリカ市民の反応はたいへん厳しいものでした。しかし三世の親たちは、自分たちマイノリティグループが自らの民族言語を話すことができなくなったのは、歴史的差別の結果であり、その責任は公教育こそが負うべきであるという主張を持って粘り強い運動を展開します。彼らにとってバイリンガル教育とは教養プログラムなどではなく、マイノリティ運動の体現化であり力強い教育宣言であったといえます。
日系人の運動=政治的基盤をもったマイノリティ運動
日系人の戦時強制収容をめぐっては、3人の二世が30年以上にわたって収容の違憲性を法廷で争いついに勝訴します。同時に戦時強制収容賠償補償請求運動は、日系アメリカ人の世代を結ぶ全国的運動となり、1986年には市民的自由法という法律が成立、時のレーガン大統領は日系人に正式に謝罪し収容された個人には補償金も出されました。しかし、この事実から「アメリカはマイノリティに対して理解のある国だ」と簡単に結論を出すのはやはり早計なのだろうと思います。一番大切なことは、これは日系アメリカ人の血のにじむような長い年月をかけた運動の成果だということです。多数派アメリカ人が理解して自主的に法律を作ってくれたわけではないのです。しかし、こうした大きな運動が全国的に展開し議会をも動かしていくことができるのは、彼らに広範で強い政治的基盤があるからに他なりません。運動の中心となった二世も三世も皆アメリカ市民であり、彼らの中から、全国レベルで多くの議員が議会に出ていると同時に、各地方自治体でも大きな政治的力を持っています。
その点で、日本の在日コリアンについて言えば、どうしてもこの政治力について考えさせられてしまうのです。最近、高槻「むくげの会」の会報タイトルが「コリア系市民」となりましたが、そこに私は「在日」の運動の新しい方向、いわば息吹のようなものを感じています。こうして「コリア系市民」つまり「コリア系日本人」として、差別撤廃や人権運動にとりくもうという新しい動きが生まれつつあることに大いなる力を感じます。アメリカの運動を日本にすべてあてはめて考えることには無理がありますが、しかしマイノリティ運動に関してだけは、アメリカの運動から学ぶべきところは多いように思います。コリア系市民運動が更に発展し、それをきっかけに私達多数派日本人が自らの国のあり方を考え始めるとき、この国の未来にも一条の光を見ることができるように思うのです。
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