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宇野 豊さん
NPO法人東九条まちづくりサポートセンター「まめもやし」 事務局長 東九条地域の歴史とまちづくりの今後の課題について
2004年1月29日
企業学習会フィールドワーク
NPO法人東九条まちづくりサポートセンター「まめもやし」の事務局長をしております宇野と申します。今日は東九条の様々な問題についてお話させて頂きます。
東九条の地域特性について
東九条の問題は地域的に4ヶ町(東岩本町、南岩本町、北河原町、南河原町)と東松ノ木町に集中しています。
東九条の特徴の1点目に、外国籍住民が京都で一番集中している地域であるということです。東九条の人口約17,000人のうち、約2,500人が外国籍住民です。そしてそのほとんどが在日朝鮮人です。町別には外国籍住民の人口割合が30%、40%を超えているエリアがあります。
特徴の2点目は、非常に高齢化が進んでいるエリアであり、一人暮らしの高齢者が多いということです。逆に、子どもが非常に少ない地域でもあります。これには社会的に裏打ちされた深刻な問題があります。未だに就職差別、結婚差別があるということです。このような理由で若い世代がこの地域を敬遠する中、高齢者は動けないので、地域に滞留することになっているのです。
3点目に住環境が極めて悪い地域だということです。私がこの活動に関わった23年のうちに、せまいエリア内で火事によって6人が亡くなっているという異常な事態があります。火事があったら人が死ぬというアパートがいまだに残されているということです。そういった住宅に住む多くの人が在日の1世、部落から移ってきた人なのです。
特徴の4点目として、東松ノ木町(40番地)という一つの地域の存在です。かつてこの地域は「不法占拠地域」で町名がなく40番地という通称名でよばれておりました。現在では住民の運動によって不法占拠状態が解消され、まちづくりがすすめられ東松ノ木町という町名がついています。不法占拠地域でしたので、水道もなければ電話もないという不便な生活が余儀なくされてきた地域です。
このような理由で、東九条は総体として他の地域から差別されている、ということです。
東九条地域の歴史的変遷
次に、この地域に朝鮮人が多く居住するにいたった経緯にポイントをおきながら、なぜこういう地域が形成されたのかということに関して話していきたいと思います。
今から約100年前はこの辺は肥沃な田園地帯でしたが、1876年に鉄道が開通して以降、1920年代にかけて労働者が集まるまちという様相を呈しました。集まってきた労働者の多くが朝鮮人でした。1910年に日本が朝鮮半島を植民地支配下におき、朝鮮半島に住む人々は日本に働きにこざるをえない状況がありました。そこで隣接する部落である崇仁地区に多くの朝鮮人が入り、そこから南隣である東九条にも朝鮮人が流入したのです。被差別部落はその日暮らしができるという貧しい受け皿的な存在でもありました。しかし朝鮮人は部落の中でも、競合関係におかれ、厳しい生活環境に身をおかざるをえなかったのです。
次に戦後の問題にはいります。資料に1946年の航空写真があります。空き地になっているエリアが疎開跡です。1945年に日本が敗戦を迎えると、その空き地にバラックや闇市がたちならぶようになります。ところが、行政側からすると、国際文化観光都市の玄関口である京都駅周辺にバラックが立ち並ぶとまずいわけです。また疎開跡は、もともと改良住宅建設の計画があったエリアだったという事情もありました。
1951年のオールロマンス事件をきっかけに、京都市が手始めにやろうとしたのが、疎開跡のクリアランス事業です。1953年には崇仁地区疎開跡買収整備事業に着手しました。しかし、バラックはひろがる一方でした。その後、1956年に初めて改良住宅ができ、1959年に2つ目のクリアランス事業がおこなわれます。京都市は代替の住宅を3箇所つくりました。しかし、そこに潜りこめない人は東九条へいき、そこにも潜りこめなかった人が、もっと南へいきました。そして高瀬川の堤防にリヤカーで木材を運んで住んだのが40番地の始まりでした。
まとめていうと、戦後のバラックのクリアランス事業によって、民族差別をうける朝鮮人たちが行き場を失って東九条に入り込みました。そして、そこからも、はじきとばされる朝鮮人が堤防にながれ、40番地を形成するという現象につながっているのではないかということがあるのです。
1960年代のはじめにクリアランス事業がおわります。現在、4ヶ町の人口は1,000人くらいですが、クリアランス事業がおわったすぐ後の1965年当時の人口は4,600人でした。今の人口の4.6倍がこの中にひしめきあっていたということです。人があふれていた状態です。それが東九条の課題のはじまりになるかと思います。
まちづくりについて
4ヶ町では色々な問題が生起する中、1967年8月に大火事がおこり、約300世帯が焼けだされました。亡くなられたのは2人でした。これが社会問題になり、いくつかの動きがありました。しかしいずれも抜本的な解決にはなりませんでした。また、1989年、バブルのころには地上げがありました。その後、立ち退きをせまられた住民を中心に、将来にわたって地上げを許さないようなまちをつくっていこうという意識にかわっていきました。こういった流れの中で、地元と京都市が合意して1993年東九条地区住環境整備計画が策定され、現在、地域施設の整備が進んでいるという状況です。コンセプトとしては、コミュニティを維持しながら活気のあるまちを創造していくということを考えています。
続いて40番地についてです。40番地は1950年代に形成されました。当時は水がない、電話がない、ということで生活に最低限のものが準備されていない状況でした。火事があったら、電話がないためよそから119番通報してもらったり、住民みずから両脇の家をこわしたりした状況であったということです。
京都市あるいは京都府からすると、不法占拠を行政が容認することになるので、電話水道が認められなかったのです。しかし、住民にとっては差別があったからこのような場所に住むことを余儀なくされたという怒りがありました。その後何度か交渉があり、1982年5月に水道水が各戸に給水されました。電話も住民が電信柱をたてて、公衆電話がつかえるようになりました。後に、京都府が本来することであったということで頭を下げにきて、それにかかった手間賃とか実費がでました。そのように苦労しながら、生活を確保したのです。しかし、川の中に家があるという状況は変わらないわけです。水がきたら洪水になるし、火事になると延焼の恐怖がある。日常的なことでいうと雨がふったらテレビの音が聞こえない。そういう不安に苛まれるのです。下水施設がなかったので、衛生の問題もあったのです。
ただ、朝鮮人が8割以上いる中で、ここであれば気兼ねせずに暮らせる空間があるのです。そこで単に住宅をつくるのではなく、そういうコミュニティが守れるような安心して暮らせる住宅をつくっていこうという流れになりました。1989年に、国と府と市に住宅の建設を要求しました。そして1991年に返事がかえってきました。公共事業の追い風がふくという判断があり、今やらなければ、放置することになるということがあったのでしょう。少なくとも住民にとっては朗報でありました。
4ヶ町、東松ノ木町の2つの町内においてこのような流れがあります。厳しい状況がクリアされて良い方向にすすもうとしていると言いきりたいところですが、残念ながらそうではないのです。最後にいくつか問題点をあげて終わりたいと思います。
今後の課題について
これらの地域にとって表面的に厳しいところをクリアランスして新しい住宅をつくるというのは住む人にとってはありがたいことであると思います。しかしながら、地域というのは地域だけが空中に浮かんでいるのではありません。周辺地域との関係もまちづくりにおいて重要な要素のひとつです。
東松ノ木団地第1棟は1996年に完成しました。本来でしたら1995年に完成するはずでした。しかし周辺からの大反対運動が起きたのです。東松ノ木町の周辺のエリアも朝鮮人が多いのですが、そういった声に加わる住民の多くもまた朝鮮人でした。地域でやっていてしんどいのが、そういったお互い同士の足のひっぱりあいです。それが非常につらいです。もともと住環境整備やまちづくりというのは、周辺にも派生し、ある意味では良い効果をもたらすことでないと意味がないと思うのです。そういう意味では地域と周辺との関係、良好な関係を築くのがまだまだ時間がかかるな、と思います。
もう一つは、公営住宅そのものが抱える問題で、そこで果たしていきいきとしたまちづくりができるのかという問題です。公営住宅の場合、数少ない若手の人間は収入オーバーということでそこから排除されるのです。そこでますます高齢化していくということがあります。
東九条のまちづくりには、高齢化、朝鮮人が多い、というコミュニティの問題に対して単に住宅ができておわりということではなくそこから再スタートをきらなければならないという問題意識がありました。そこで、京都市との長い協議の中で、地域のことをよく熟知している、在日のことをよく理解している民間団体に住宅管理と、住民の生活のケアやコミュニティの形成をおこなう生活支援を委託することが取り決められました。私たち東九条まちづくりサポートセンターがその事業を京都市から委託され展開しているというのが今の動きです。
しかし、これはある意味実験的な取り組みです。はたして将来いきいきしたまちづくりにつながっていくかどうか、難しい問題を抱えています。結局のところ現状の事業は高齢化に対しての対処療法という性格が強く、そこから先をどう考えるのかということが今後の大きな課題だと思います。そういう意味で、非常に大きな岐路にたたされている現状があります。
後は今聞いた話を頭のすみにおかれて、九条の風にあたってきてください。こういった変化があるまちということでなにがしかの勉強になればわれわれとしてはありがたいなと思っております。どうもありがとうございました。
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