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朴 実(パク・シル)さん
| プロフィール
1944年京都市東九条で在日2世として生まれる。1971年に「帰化」により日本国籍となるが、1987年、2度目の申し立てにより「帰化」時に強制された「日本的氏名」から、元の民族名を取りもどす(全国初)。1994年「帰化」時、強制的に採取された「10指指紋返還訴訟」に勝訴。
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京都市立芸術大学特別研究員
東九条マダン実行委員長
「民族名で生きるとは」
2004年5月12日
多民族共生人権教育センター 第5回総会記念講演
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国籍について
アンニョンハシムニカ?今紹介されました朴 実(パク シル)と言います。私は在日朝鮮人2世として京都市で生まれて、そのままずっと京都で過ごしています。ちょうど今年の1月で60歳になります。民族問題を話す当事者というのは韓国籍か朝鮮籍の在日朝鮮人が多いのですが、私は1971年に「帰化」によって日本国籍を取得していますので、ある意味では日本国民でもあるわけです。当時「帰化」の条件の1つに日本的氏名ではないといけないということがありました。そのため日本名にしたのですが、民族名を取り戻すためにその後2回裁判を起こして、2度目にやっと勝訴しました。
その後、1993年まで「帰化」の時に指紋押捺の強制があったのですが、私の時代は10指指紋でした。それを人権侵害だといって訴えて、1994年に裁判で10指紋原紙を廃棄処分とすることを勝ち取りました。
私は先ほど自分のことを在日朝鮮人と言いましたが、最近では在日韓国人、あるいは在日韓国・朝鮮人という用語が多いです。朝鮮といいますと朝鮮民主主義人民共和国の方を指すというように思われるということで、あえて韓国とか在日韓国・朝鮮とかいうように言われています。在日韓国・朝鮮というと全体を指すのでいいかもしれないのですが、我々民族の当事者としましては、韓国・(点)という中黒ですね、この中黒がやはり38度線を象徴しているようで、胸が痛むのであえて在日朝鮮というように私はいっています。
もちろんこの朝鮮というのは昔から日本語で使われている朝鮮全体を指す言葉です。朝鮮民主主義人民共和国の国籍は北朝鮮国籍だとしてよく誤解されています。マスコミ関係や公的な機関でも間違って解釈されていることがよくあります。日本は朝鮮民主主義人民共和国と国交を結んでいませんから、正式には国籍ではないのです。つまり朝鮮国籍というのは、戦前からいる者とその子孫で、韓国籍に切り替えていない人が自然に朝鮮国籍になっています。
韓国・朝鮮籍と闘った幼少時代
私が生まれ育った東九条(京都市)は非常に朝鮮人の多い地域で、学校の生徒の内約35%が朝鮮人でした。そして非常に珍しいのですが、私が小学校に入学した当時、朝鮮人は本名を名乗らないといけないというすごく厳しい決まりがありました。私が小学校に入ったら「朴 実(ボク
ミノル)」という名札をもらいました。1年生ですからよく分からなかったのですが、その名前が非常にイヤだったのです。さらに、兄が家で日本名を使っ
て仕事をしているのに「朴」という苗字で弟たちが帰ってくると商売に影響が出るので、何とか日本名にしてくれと何回も学校に頼みに行きました。しかし、学校の方針だから変えることができないと言われました。
そのため、私が小学校1年生の時から学校では仕方なく「朴」ているけども、学校を出ると名札を取る。そして在日朝鮮人であることがばれないように友達を家に呼ばない、そういう事が理屈ではなく、生活習慣として身についてしまいました。そして、その「朴」という本名は隠さなければいけないと、いつの間にか思っていました。
それが現実に出てきたのは、私が小学校3年生になる頃です。上の姉が地域の公立中学を卒業して、就職試験を受けた時のことです。韓国籍や朝鮮籍で、ましてや「朴」と本名を名乗っていると、どこの会社もとってくれないのです。それで困ったあげく担任の先生が姉に日本名で、本籍地を現住所に書き換えなさいと言って大きな電気会社を受けさせました。そして、なんと姉はその会社に内定しました。
ところがその後学校で、もしその会社で姉が在日である事が分かると、恐らく今後自分たちの学校の生徒はこの会社に採用されないだろうということになり、学校が実は姉は間違って日本名を書いてしまった。本当は本籍地は大韓民国で名前は「朴」であると話したのでしょう。案の定その会社の内定は取り消されました。その後、就職を取り消されどこにも働く当てがないから、そのことが原因で姉は自殺未遂事件を起こしました。1回目は命を取り留めたのですが、2回目は大量の睡眠薬を飲んで、たまたま発見が早くて命だけは取り留めました。しかし、それ以降病気のまま十数年生きて亡くなりました。その後、私も大学を卒業し京都市内の私立高校に音楽の非常勤講師として採用されましたが、入職して朝鮮人ということが分かると、1年後に解雇されました。
また、姉が働ける働けないの状況に関わらず、義務教育を終了したら働くだろうということが前提になっていたのか、生活保護も打ち切られました。私の家庭では学校に給食代も払うことができないし、私は小学校2年生から新聞売りのアルバイトをしていたのですが、それでも食べていくことができないそんな時代でした。行政側にとっても、朝鮮人は厄介者だという考えがあったようです。当時は、日本も貧しくて、日本人が食べていくのに精一杯なのに、朝鮮人のために生活保護や社会福祉に金を使うわけにはいかないという風潮だったと感じましたし、いろんな文章を見てもそういうのが残っています。
「帰化」と指紋押捺
私が自分で朝鮮人ということを意識したのは、日本人との結婚問題でした。相手の女性が日本人で、その両親や親戚、兄弟が猛烈に反対しました。娘が朝鮮人と結婚したら自分たちは田舎では生きていけないと、そういって母親は娘に抗議する為にガス自殺まで企てました。その時に義父が私に、「『帰化』をしてくれないか」と言いました。そう言われた時に「なぜ朝鮮人のままだったらいけないのか」とふと思ったんです。「なぜ、僕の何が悪いのか、国籍が違うということはそんなに悪いことか」と思いました。でも、とりあえず「帰化」するために京都の法務局へ行きました。
私は「帰化」という言葉は差別的な表現だと思います。日本政府は「帰化」という言葉に表されるように、国籍取得を対等に見ない、人間を対等に見ない。「帰化」の帰は帰順、帰服からきてると思うのです。他の国を征服したときに帰順させるとこからきています。「帰化」の化は徳化、実質的には同化の化です。先ほどいった日本的氏名と言うのがこれの典型です。『帰化事件処理』という大きな本があるのですが、当時その本を読んだら、本当にひどいものでした。朝鮮人部落に住んでいる、あるいは自宅に置いている本などで民族的なものがある、チョゴリなどの民族的衣装があるとか、様々な理由で「帰化」をさせない、あるいは指導をするという項目があります。その中で「帰化」の条件として「帰化」後の氏名というのがありまして、民族的な氏名はだめで日本的氏名に限ると実際、係官も言いましたし、そのように指導されました。それで、私はそれまで使っていた「新井 実」と届け出ました。何年か前、当時横綱になろうとしていた曙が日本国籍をとろうとした時、当初曙は自分の本名である「チャド・ロウエル」という名前で「帰化」をしたいと言っていました。しかし周りが全部反対して、いかにも日本人的な「曙太郎」って言う名前でしか「帰化」することしかできませんでした。私らの時代はそれが、『帰化許可の手引き』という「帰化」許可の条件として文章化されていました。もっと驚くことには、「帰化」申請の段階で書類をこと細かく調べる事です。貯金通帳や預金通帳、家の大きさや部屋の数、畳の枚数、家具の種類など、何から何までです。私の場合は本籍地に親戚もいないのに、本国から戸籍を取り寄せてそれを翻訳しろとか、もう非常に煩雑な手続きがいります。そして最後に「これで書類審査は通りました。ここに住所氏名を書いて、はんこを押してください」と言われました。これで全て終了したと思っていたのですが、その後別室に呼ばれ指紋押捺を要求されました。私たちの時代は外国人登録法で14歳から左手の人差し指で回転指紋をさせられました。そしてその指紋を押した手帳をいつも持ってないといけないのです。それが「帰化」においては10本全て押さないといけないのです。1本でも嫌なのに、それぞれ最初左手1本ずつ、そして右手1本ずつ、最後に手のひらまで押せというのです。そんなものとても押せないです。しぶっていると係官に無理に押させられました。
私は指紋というとホントにいやな思いがあって、高校2年ぐらいのときに外国人登録の切り替えに京都市南区役所に行きました。そうすると奥で係官に怒られている在日一世のオモニがいまして、「あんた自分の名前も書かれへんのか」と、「何十年日本に住んでるねん。名前ぐらい書けるやろ。」と怒られていました。そのオモニは「すいません、すいません」と謝っていました。その後姿をそっと見たらなんと、私のオモニだったのです。私は大きくなるまで、オモニを恥ずかしいものとして思っていました。みすぼらしいし、日本語はしゃべらないし、字もかけない、こんなん自分の母親としては最低だと思っていたのです。7人も子どもを抱えて夫に死なれ、働き詰めで、まともなところでは働けない中で自分たちを育ててくれたオモニを見下げて生きてきました。そういう自分をとても恥ずかしく思います。そのような思い出とも重なる指紋を10本も押すというのは、屈辱以外の何ものでもないのです。それでも私は無理矢理係官に押させられました。
韓国・朝鮮人というアイデンティティーと裁判
私自身に子どもができて、子どもにどういう教育をしていこうかと思った時に、正直にこの子に「お前の父親は朝鮮人や。お前の母親は日本人や。お前のアボジのアボジは日本の植民地時代、米やら全部取られて仕方なしに日本来たんや」ということを伝えていこうと思いました。でも、その時私は日本国籍で名前も「新井」という苗字でした。そして、歴史も知らない、言葉も知らない、何も知らなかったのです。これでどうやって朝鮮人として生きてほしいということを言えるのかと思いました。私が言葉を勉強しだしたのはそれからです。歴史の本は読めば読むほど、学校では習ったことないようなことがいっぱい書いてありました。強制連行の記録、従軍慰安婦の話、人間がやることかという事を日本はやってきたんです。私は朝鮮人でありながらそのような日本人になろうとしていました。「創始改名」によって我々のアボジや祖先が「朴」から「新井」へと変えた理由も知りました。私はそのようなことを知ってから「朴」という苗字を名乗りました。そしてできれば子どもたちにもこの「朴」で生きてほしいと思ました。1984年に、京都の家裁へ「新井」から「朴」への「氏変更申し立て」をしました。6ヶ月間審判協議が続きました。その結果、民族感情では民族名への変更は許可しないということが決定されました。私の審判文には「『新井』から『朴』への変更は、単なる民族感情からくるもので、法的な秩序を変えるのに十分でない」と書いてあります。単なる民族感情、民族意識というように言われたのです。それが、当時の日本の一般的な風潮でそして1991年に、私と他2人で京都地裁に国と法務大臣を相手に「帰化時の10指指紋返還を求める訴訟」を起こしました。国側は一貫して指紋を押す、押さないは本人の自由で、任意だというようにいいました。さらに、指紋は本人確認のための唯一の手段だと言ってきました。ところが外国人登録法の指紋押捺問題で、日本だけではなく海外からも人権侵害であるという批判が起こりました。指紋押捺拒否者も、多い時は延べ15,000人にもなりました。私も1985年、オモニが80歳の時でしたが「指紋なんか押さなくていい、外国人登録証なんか持たなくていい」と言いました。60年以上も日本に住んでいて、京都にずっと住んでいる人間がどうして指紋まで押して、外国人登録証を毎日持ち歩かないといけないのでしょうか。国側は1993年の3月、突然「裁判長に一言申し上げておきます。「帰化」事件に関して、昨年の12月31日付けをもって、指紋採取を廃止しました」と言いました。それまで、指紋を押すことが本人確認のための唯一の条件だと言っていたのはどういうことになるのでしょうか。
国側は3人だけ例外を作るわけにはいかないので、それまで指紋を押してきた約225,000人分全部廃棄処分するから訴訟を取り下げてくれと言ってきました。ずいぶん協議しましたが、この裁判は勝利だということで、1994年4月、和解に応じました。そしてその年の7月、弁護士事務所に私の10指指紋は廃棄されたという報告がきました。
子どもたちの未来と多文化共生
私は、3人の子どもが大きくなって色々考えました。そして今も京都の東九条を中心に生活しています。近くの小学校・中学校に通う子どもたちを見ると、これから生まれてくる子ども達に親から伝わった歴史や文化を伝えていくべきだと思います。それは負の歴史も含めて包み隠さず伝えるべきだと思います。未来の子どもたちがどう判断するのかは別ですが、判断できるだけの材料はないといけないと思うからです。
そういったことから、私たちは1986年秋、東九条で民族文化運動、ひとつの広場という意味で「ハンマダン」というのをつくりました。さらに、1993年10月、東九条を中心に活動する同胞や日本人に呼びかけ、より広範な「東九条マダン」を開きました。東九条マダンを代表する出し物に「和太鼓&サムルノリ」があります。このセッションを通して、私たちはお互いに解り合うことの大切さを考えました。私たちは違うものとして別れることも可能だったのです。しかしこの地域で、この社会で、一緒に生きていきたいと思いました。そして、どうすれば違いを違いとして認め合いながら、生きていけるのかを考えました。
私の子どもは朝鮮人と日本人のダブルです。そして息子にはまた日本人と結婚して子どもがいます。文化的にはダブルだけど、血のつながりからいうと4分の1は朝鮮人です。この子は「朴 伽耶(パク
カヤ)」と言います。この子が大きくなって結婚した時にどう判断するかわかりませんが、たとえ国籍が違って血のつながりが薄くなっても、この子が「朴 伽耶(パク
カヤ)」という限り、この子には朝鮮の血や朝鮮の文化、あるいは日本と朝鮮の関係の歴史が流れているんだろうなと人は想像すると思うのです。この子たちが本当に自分の思いのまま、「私はお父さんが朝鮮人で、お母さんが日本人です」と話し、そして自分は「パク」という苗字だということを隠さずそのまま言えて、それが受け入れられる社会の中で育って欲しいと思います。
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