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金 泰 九 さん
| プロフィール
1926年韓国慶尚南道陜川で生まれる。1938年日本定住の父の元に来日。1944年旧日本陸軍兵器学校に入校も、翌年、卒業直前に日本敗戦により復員。1947年大阪市立商科大学(現大阪市立大)に入学するが、1947年ハンセン病告知により、同大学を中退。1952年1月に強制収容により長島愛生園に入所。1999年6月に「らい予防法違憲國賠訴訟」原告に加わる。 |
(国立ハンセン病療養所「長島愛生園」入所者)
「偏見は自分自身をおとしめるもの」
2004年6月25日
第1回 多民族共生人権啓発セミナー |
みなさんこんにちは。私は11歳3ヶ月で日本に参りまして日本での生活が66年になりました。私は一世の韓国朝鮮人です。
療養所での暮らし
私は52年間長島愛生園という療養所の中で過ごし、今も過ごしています。病気は治っていますが後遺症が残っております。現在療養所で療養している私たち、ハンセン病入所者は全国で3,500人います。そのうち、私が住んでいる長島愛生園の入所者は450人ぐらいです。そのほとんどの人は療養所の中で住んでいるといってもいいのではないでしょうか。そして、多くの者が手足に後遺症を持っています。そういう私の右手首もこのように上にあがりません。下垂したままです。
しかし、「後遺症があるからハンセン病だ」と思うのは間違いではないかなと思います。後遺症そのものは病気ではありません。後遺症を病気と思われると困ります。この点を皆さんにも知っておいてほしいのです。私は今78歳ですが、人生のほぼ3分2を療養所で暮らしています。
渡日、日本人観、自分史から
私は1926年、韓国の慶尚南道陝川という所で生まれました。当時、私の国は日本の植民地統治下でした。日本は文化は勿論、あらゆる面において日本皇民化政策を強制していました。
私の村に小さな学校が一つありましたが、学齢期になり学校に行くことになっても学校に行くのがいやでした。なぜなら学校の校長先生が倭人(日本人)だったので怖いという思いがあったからでした。小さいころベソをかいて泣いたりすると、親は決まって私に「あそこに倭人がくるよ。連れていかれるよ、こわいよ」と言っていました。それで子どもながらも私はいつしか日本人は恐いものだと思っていました。長じて「倭人は恐い」という歴史的背景を知ることになります。
ところが、学校に行ってからは、日本人を見る目、日本人に対する考え方が変わっていきました。それは校長先生がとても親切だったからです。村人もその校長先生を非常に尊敬するようになりました。私はその先生を通して「日本人は親切だ」という思いをもちました。
4年を終了し日本に定着していました父のもとに引き取られ日本にきたのが1938年1月でした。まず驚いたのは、日本中が勝った勝ったという戦勝ムードに沸き返っていたことです。それというのも私が来日した半年前、つまり1937年7月日本陸軍が中国大陸で侵略戦争を始めており緒戦で南京などの大都市を占領していたのです。それを祝っての提灯行列が毎夜の如く行われていました。あの頃が日本の軍国主義の最も華やかな時代ではなかったかと思います。そして、中学に入ると自分が植民地の出身である事を忘れて、日本の軍人を志望していました。親は反対していましたが1944年3月28日、友人に誘われて神奈川にありました旧陸軍兵器学校にいくことになりました。
発病とその後
次に私が病気になったいきさつについてお話します。ある日、私の右ひじの所に潰瘍ができまして、その潰瘍の周辺があまり痛くないということに気が付きます。当時、胃潰瘍も少し患っており、市民病院通いをしていましたので内科のお医者さんに「どうもこの辺の感覚が鈍い」と言いましたら別の部屋で待つようにと言われました。しばらくすると、別の先生が来て、私の上半身を裸にして、注射針のような物で身体をさしたり、やわらかい筆先で背中をなでたりしました。その時、勿論痛いところもありましたが知覚がなかったところがあったようでした。すでに私の背中にはハンセン病特有の麻痺症状がでていたのです。「先生、なんの病気でしょうか」と聞きますと先生は「レプラだと思う」といいました。その頃はレプラといえば「らい病」を指す言葉ということは誰でも知っていました。私もすぐわかりました。しかし、父方、母方どちらにもハンセン病患者がいない事を知っていましたので、すぐには先生の言葉が信じられませんでした。恥ずかしいことながら私の意識にはハンセン病は感染症であるにも拘らず遺伝病だと思っていたのです。
それから一週間ほどすると大阪府の予防係の人が訪ねてきて、「あなたはらい病だから療養所にいくように」といいました。そんなに簡単に言われても私にも色々な事情があるので、なぜ行かないといけないのかと思いました。
その後、私は、1950年に先輩の金さんの店を借りて食堂をしました。本当に流行りました。ところが数ヶ月の内に、大阪府衛生予防課の職員が私の家にきて「病気の人がこういう店をやっていてはいけない」と言い、制服の警察官を伴ってきて「やめろ」と言いました。そういうこともあり、私は意欲をだんだん失って店をやめました。
療養所への入所
1952年1月、いよいよ私は大阪駅から患者専用列車に乗せられて岡山の長島愛生園に強制収容されました。
ハンセン病はそんなに簡単に感染する病気でもないにもかかわらず、「怖い病気だよ、すぐうつるよ」とコレラかチフスのような扱いを受けるものでした。
私は療養所に行くと、ベッドに括りつけられて生活すると思っていました。しかし、驚いたことに皆元気で仕事をしているのです。当時は軽症者寮・不自由者寮の二つに分けられていて、所内のあらゆる作業を患者がしていました。私もその時は手足に障害もなく、軽症でしたので色々な所内作業に従事しました。
ハンセン病患者は手足に感覚を失っている人が非常に多いのです。そういう人たちが仕事をするので、どうしても怪我をします。しかし、怪我をしても私たちは知覚がないのですぐにはわからなくて、重症になってわかる事が多いのです。私たちの中では仕事をして傷を負い、そのために手足を悪くした人がたくさんいます。
帰省と妻の死
当時は帰省が大変厳しかったのですが、私にもどうしても帰省しなければならない事情がおこりました。妻の姉から「妻が非常に具合が悪いので病院に入れたいから帰ってほしい」という手紙がきたのです。初代園長の時代の帰省は特に厳しいものでした。しかし、私も何とかして帰りたい、逃げてでも帰りたいという思いがありました。日参して帰省を頼むものですから人事係も根負けしてか、それなら鼻汁検査をするようにといわれました。鼻の粘膜には菌が多くあるということでした。検査の結果、菌は無く、病気はすでに治っていました。
そこで、てっきり帰してもらえると思っていたら、今度は「園長の面接を受けるように」と言われました。周囲の者から園長面接は形式だけだと聞いていたので、帰してもらえるものだとばかり思い、園長の前に行きました。しかし、園長は私を見るなり「おまえはまだここにきて3年しかならないから駄目だ」と言うのです。
結局、その時はどうしようもなく、帰れませんでした。1957年、初代園長は退官し2代目の園長が就任しました。この園長は、「なるべく患者を外へ出して社会になじませよう」という考えを持っておられる人でした。
1957年5月に一時帰省をし大阪の姉のところへ行きました。そこで大変驚きました。妻が亡くなっていたのです。入院させたという連絡は受けていましたが亡くなった連絡はなかったのです。しかし、姉には「どうしてそんな重大な事を私に連絡してくれなかったのか」という思いを口にすることができませんでした。あれほど「帰って来い」という手紙を貰ったのに私は帰れなかったからです。そして、2週間の帰省の期限がきたので、自治会の仕事をしていたこともあり愛生園に帰ってきました。
ハンセン病について
今は病名を「らい病」とか「らい」という表現はしません。「ハンセン病」といいます。戦後、私たちは自治組織を作り、色々な運動の中で病名を「『ハンセン氏病』や『ハンセン病』と言ってきました。アメリカの「スター」という月刊誌に、ハンセン病という表現が使われていたので、そこからとったのです。しかし公認はされていませんでした。
今は、「らい予防廃止に関する法律」の中に名称を「ハンセン病」とする、となっておりますので、「らい」とか「らい病」という表現を活字で見ることはないと思います。
昔はハンセン病は遺伝すると思われていました。しかし、らい菌が発見された事でハンセン病が感染病であることがわかってきます。ハンセン病で最も特徴的なのは麻痺です。この病気は麻痺を伴わなければ少しも怖くないのです。末梢神経がおかされ、そのため麻痺がおこり、運動神経がやられるという症状が怖いのです。私は今身体障害者手帳を持っていますが、愛生園には身体障害者手帳をもらえない人もいます。手足の後遺症がないので、身体障害の要件を満たさないからです。しかしその人たちも体に麻痺している所はあるのです。ところが、身体障害者の要件の中に麻痺が入っていないので、身体障害者手帳は貰えないのです。
予防法について
日本におけるらい予防法は、1965年(明治40年)「らい予防二関スル件」という法律名で成立しました。明治の初期ごろから外国から宣教師がたくさん入ってきます。キリスト教の宣教師の目にとまったのがこのハンセン病患者でした。物乞いをしている患者を宣教師が見てびっくりするのです。日本は一等国だ、戦勝国だといいながら、ハンセン病者を全く救護もせずにそのまましているというのはどういうことかということで、日本政府にも救護を要請します。また、宣教師たちは自分たちで自ら救護所をつくったり、あるいは療養所をつくったりしていきます。それをみた日本政府も予防法を作って全国に5ヶ所療養所をつくりました。このときの予防法では、まだ患者を徹底的に療養所へ隔離するということではありませんでした。それをすると大変なお金がかかるということがあったからだそうです。
その法律が時代とともに、だんだんと強化されていきます。日本はますますファシスト化していきました。1916年(大正5年)に「らい予防法」という法律に改正されます。その時に懲戒検束権というのを新たに設けて、所長にその懲戒検束権を与えました。
愛生園は四方が海ですから逃げて帰るというのは大変です。漁師にお金を出して船で逃走するしかないわけです。しかし、園内では逃走資金になる日本銀行券を持たせなかったのです。持っている日本銀行券をみんな取り上げて園内でしか使われない園券を持たせていました。1948年(昭和23年)まで園券を使わせていました。運良く逃走した人も、見つかったら監房(監禁室)に入れられました。
1931年(昭和6年)には、懲戒検束権規定といいまして、さらに細かい規定がつくられました。その中で一番の怖い規定というのは「職員に反抗する者は監房に入れられる」ということでした。
ハンセン病訴訟への流れ
その後、厚生省が予防法を改正しようとしたのは、プロミンという薬ができてハンセン病が治るようになってからです。私たちは命をかけて1953年(昭和28年)の「らい予防法改正案」に反対しました。なぜなら出てきた「らい予防法案」というのは、それまで強制入所できる条項をそのまま残した法案だったからでした。
結局、私たちの必死の運動にも拘らず予防法改正案は、9項目の付帯決議をつけて原案通り、衆・参両院で可決されました。
その法律が今から8年前の1996年にようやく廃止になりました。廃止になった時の厚生大臣は民主党の管直人さんでした。管直人さんが国会の説明に先立って謝罪をしました。「予防法が長く存在したために、患者だけでなく家族にも大変迷惑を掛けて申し訳ない」という意味の謝罪でした。私たちは「誤った法律のために皆が大変迷惑を被った」と言ってほしかったのです。
その2年後に九州にある2つの療養所から、13名が原告となり「らい予防法違憲国賠請求訴訟」を熊本地方裁判所に起こします。私たちの全国組織、全国ハンセン病患者協議会が基本要求に据えていたのも、「誤ったらい予防法による損失の補償」でした。それで、なんとしてもこの裁判は勝たなければならないという思いがありました。
私が原告になったのは、100名から構成される九州の弁護団が時々、長島愛生園に来て話をしてくれたことがきっかけとなりました。私は弁護団の話を聞くうちに原告になる決心をしたのです。自分にできることといえば原告になることだと思ったのです。
そして、私をふくめ第6次原告団として9名が熊本地方裁判に申請されました。そしたら、私に対する誹謗中傷がきました。「あの朝鮮人が金ほしさのために原告になった」というようなものでした。
自分は朝鮮人ですが、考えてみると、私たち朝鮮人が一番被害を受けていたのではないでしょうか。同じ療養所の中にいて日本人の貰える国民年金も外国人であるため貰えませんでした。そういうことを考えても、私たちは大変な差別を受けてきたのです。
私はその誹謗に対してひるむという気持ちは全くありませんでした。なぜなら判決は、単に原告だけのものではないからです。原告であろうとなかろうと、ハンセン病者に等しくかかってくるものだからです。だから僕はみんなの代表だという気持ちがありました。 私は熊本地方裁判所の原告でしたが、その後瀬戸内訴訟団もでき、岡山地方裁判所に愛生園の中からも提訴する人がでてきました。
熊本地裁判決とその後
私は提訴から3年間いつも裁判の傍聴にいきました。そして、2001年5月11日、私は熊本地方裁判所で判決を聞いたのです。判決の場合、大抵なら、裁判長が主文を読んで終わるそうですが、判決要旨までも長く読んでくれました。法廷から出てきたいずれもが「完全勝訴」といっていました。また、「きっと国は控訴するだろう」とも言っていました。マスコミも「まず国が控訴してから和解するのでは」ともいっていました。私自身も「完全勝訴のこの判決は、国がそんなにすんなり受け入れないであろう。控訴するに違いないだろう」と思いました。
そして、5月21・22日東京へ行き、首相官邸前で「控訴するな」とシュプレヒコールをあげながら運動しました。全国から約1,000人もの大勢の人が集まりました。原告の数はそんなに多くなかったのですが、この裁判を支持する一般の市民の方がたくさんいたのです。
私は23日に用事があったので帰りましたが、夕刻の6時半頃に小泉首相がテレビカメラに向かって「異例な事だが、控訴を断念する」と言いました。
私はそれを聞いた時、飛び上がらんばかりに嬉しかったものです。ついに熊本地方裁判所の判決は紛れもなく決定したのだと思ったからでした。
判決に基づいて全面勝訴を勝ち取るための、いろいろな諸問題はいまだに残っています。それらの解決のため私たちは原告団、全国弁護団、全国ハンセン病療養所入所者協議会で3者統一交渉団をつくって厚生労働省と交渉をしています。
また、厚生労働省の後押しで第三者による検証会議が全国療養所を回って、誤った「らい予防法」がなぜ90年も続いたのか、その真相究明に当たっています。
ありがとうございました。
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