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ペェ 重度さん
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プロフィール
1944年生まれ。在日韓国人二世。小、中を日本の公立学校で学び、高、大を私学で学ぶ。在日大韓基督教会総会・在日韓国人問題研究所の創設に参加後、同所総幹事となる。在日の市民運動に長く関わる中で、川崎市ふれあい館設立に向けて奔走。現在、川崎市ふれあい館館長。 |
(川崎市ふれあい館 館長)
『変遷する在日の過去と現在と未来』
−民族差別撤廃闘争の地平から見えてきたもの−
2003年9月17日
第3回 多民族共生リーダー育成合宿研修会 |
アンニョンハシムニカ。ただいま紹介頂いたペェ重度(ペェ・チュンド)と申します。私は日本で生まれて日本で育った在日韓国人の2世です。
戦後処理からはずされ続けてきた在日の処遇
ただいまご覧になって頂いた「忘れられた皇軍」、今見ても非常に迫力のある映像だと思います。これは、1963年に大島渚がはじめてテレビの作品をつくるということで発表されたものです。私は、軍人恩給、戦争犠牲者に対する援護法の問題をめぐっての訴訟、石成基(ソク・ソンギ)さん、陳石一(チン・ソギル)さんの裁判を支援したのですが、その運動をする時にみた映像「忘れられた皇軍」が強烈に印象に残っていました。あの映像の中でも印象に残るのが、石成基さんたちが外務省に行った時に吉田茂とすれ違う光景です。吉田茂はマッカーサー宛に連日のように「朝鮮人を一人残らず、日本から追い出したい」と手紙をだしていたそうです。そういう行動をとった男に、傷痍軍人が訴えにきて、そのそばをキャデラックでとおりすぎていくのです。
在日韓国・朝鮮人は日本の戦後処理から外されてきたといっても過言ではありません。この問題はまだ進行形です、しかし、石成基さん、陳石一さん、大阪の鄭商根(チョン・サングン)さんも亡くなりました。でもその当時、問題を訴えた人は当事者だったのです。終わった過去の話ではなかったのです。
憲法の14条に「全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的、経済的、又は社会関係において差別されない」とあります。ところが、英文の日本国憲法の草案は「門地」という言葉が「nationality=国籍」となっています。現行の日本国憲法をつくりだすときにかえているのです。それから、「People」という言葉を「国民」と訳しています。巧妙な形で国籍を理由にした排除というのは当初から画策されてきました。
日韓条約でも変化しなかった生活権
在日の生活権は、1965年に妥結した日韓条約の中でも変化しませんでした。唯一かわったのは、韓国籍をもっているものに関して、協定永住を与える、というものでした。ところが、その当時の大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)は、在日韓国・朝鮮人の子々孫々の永住を許可すべきという要求を、「2代にわたって永住を認める」ことで妥結します。在日韓国・朝鮮人を日本政府に「売った」といわれるゆえんです。
日本は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、戦後賠償で経済復興をとげていきます。戦後賠償、賠償金を払うことでも経済がうるおうことにつながりました。日本の戦争が終わった時、アジアは混乱の中にありました。そういう混乱の中にあって権力を握った人がもっとも必要とするのはお金です。賠償金を支払う際、日本政府はそういう弱みにつけこんで、交渉を長引かせました。そしてそれを現金で支給するのではなく、肥料、セメント、トラック、バイクなどの物資で支給しました。そして日本国内の産業が活性化していったのです。それが日本に住んでいる人たちにはあまりわからなくても、アジアの人たちには、日本が結局アジアの人間を踏み台にしたという構図がみえていました。
在日の帰還事業と残留の理由
先日の朝日新聞に「北朝鮮帰還事業開始の4年前、政府、政治家が積極関与」という ショッキングな記事が載っていました。戦後、北への帰還事業が進んだ時に、日本政府、政治家が積極的に関与していた、という資料がヨーロッパで発見されたのです。そして、それに絡んで帰国事業を展開したのは、日本赤十字だったということです。帰したかったというよりは追放したかった、という事実があったということです。
それでも韓国・朝鮮人が日本に残った、という理由は色々あります。南北分断、朝鮮半島南部でのコレラの発生、帰る土地がない、日本でも苦しいが本国よりは飢えをしのぐことができる、日本人と結婚した、生活の基盤が日本で築き上げられていく、等々です。これ等の理由の中で残った人が60万人いました。
日本が朝鮮を植民地支配した時の最高の統治目標は、「同化」、つまり、日本人化させることです。その方法は、在日をいつまでも厳しい状況におき、自ら「日本国籍を下さい」という立場においこみ、そしてその時に、厳しい審査の中でふるいをかけていくというものです。私は、植民地支配としての論理である同化政策が戦後も継承されて展開していると思っています。
在日の福祉元年と同化の総仕上げ
日本は開放社会にむかっているという見方があり、その根拠にあげられるのが1979年の国際人権規約の批准です。しかし、そこで私たちの処遇の何がかわったかというと、公営住宅の入居が認められたこと、国民金融公庫の融資がうけられるようになったこと、その程度です。社会保障制度において内外人平等となるのは1982年です。日本は1981年に難民条約を批准し、1982年に発効しました。そういう意味では、1982年が在日韓国・朝鮮人にとっては福祉元年といえると思います。
また、1979年のサミットでは、先進国から日本はすばらしい経済発展をとげたと評価をうけました。そして、難民をどれだけ受け入れているかが、先進国の人権、民主主義に対する成熟度の度合いとしてみられました。当時、日本は難民をほとんど受け入れていなかったので、ベトナム戦争が展開されたインドシナ3国出身の人間を難民と認めることにしました。難民条約を発効させるにあたっては、社会保障は内外人平等としなければなりません。そこではじめて在日の社会保障上の問題が解決することになるのです。我々は、それまでも年金問題、生活保護問題に対して運動をしていました。しかし、この難民条約批准が年金制度の中の国籍条項撤廃となったのです。ただ、沖縄復帰の場合など日本国民の場合にとられた制度発足時の経過措置が在日韓国・朝鮮人、中国人に対してはとられませんでした。そのため、今、最も年金を必要としている人たちはその制度から外されてしまっている、という問題があります。
就職差別からみる企業体制
在日同胞、民族団体の運動には祖国の統一が掲げられていました。祖国が統一すれば、在日同胞もかわるからそこに力をそそいでいかなければならない、というものです。当時、わが祖国は、数年後に統一するといわれていました。しかし統一が言われ続けて半世紀がすぎた今もいまだに統一されておりません。統一はとても大切だと思っています。でも、生活の現実はそれをまってくれません。
1世たちはそれなりに母国語、生活習慣を知り、民族的なアイデンティティをもっています。しかし、日本で生まれ育った2世以降の世代は、民族的なアイデンティティの保障がほとんどなされていませんでした。民族学校はありましたが、本当の意味での在日をいきる上でのアイデンティティ形成の機会があったかに関しては疑問が残ります。
そして、我々が学校をでて就職しようと思った、1970年代半ばから1980年代にかけては、朝鮮人だ、韓国人だというだけで就職できなかった時代です。そういう就職差別の中で、最たるものが日立就職差別事件でした。1970年に提訴され、1974年に原告勝訴判決がでました。日立は控訴しませんでした。その後、社会的にも謝罪しました。
そうなった背景には日韓の経済癒着の問題があるのではないかと類推しています。日立製の地下鉄車両がその3倍、数倍の値で韓国に売られていたのです。また、日立は社内で人事担当者むけに「採用にあたっては共産党員、創価学会、朝鮮人に気をつけなさい」という秘密文書をまわしておりました。これは国会でも問題にされました。そういうことも関係していたのかもしれません。企業に内部文章がまわるというのはその他にもありました。また労政時報という業界紙で外国人であるという理由で採用を拒否しても、憲法違反にはなりませんよ、というでっち上げのQ&Aがでる、ということもありました。
外国人の市政参加
その一方で取り組んできたのが地方公務員採用の問題です。今やっと一般職の門戸が開きました。しかし、管理職は認められていません。東京都では、鄭香均(チョンヒャンギュン)という保健婦が上司からすすめられて管理職試験を受けようとしました。しかし、テストは受けられないとなり、これが裁判になりました。一審は負けましたが、二審は勝ちました。その後東京都が上告しました。最高裁では9月28日には弁論が開かれて第3小法廷で判決が出される予定になっていました。ところが、その寸前になって、最高裁が「この問題は大法廷に付託する」といってきました。
公務員になるということは参政権の問題に連動してくるという見方があります。参政権の問題は、1995年に最高裁ではじめて画期的な判決がでました。「日本で永住をしている外国人に対して地方自治体の選挙権を与えることは憲法上禁止されていない」というものです。この時の最高裁の判事は非常に優秀な方で、各国の制度を丁寧に調べ判決文をだしたそうです。ただ、最高裁、司法が認めたにもかかわらず、いまだに立法府はそれに従って制度をかえていません。そして、その1995年判決を今度の最高裁大法廷でひっくりかえそうとしているのではないか、と分析をしている弁護士がいます。
最高裁は、ほぼ国益論でものごとを処理しています。そして、外国人に選挙権を与えるか与えないか、戦争犠牲者に対して補償するかしないかは裁判所が決めることではなく、立法裁量であるとして、責任を全部立法府に転嫁しているわけです。裁判所が人権に基づいて判断する、そういう三権分立というものがきちんと成り立ってこそ、民主主義が成立するし、成熟していくと思うのですが、そこがまだそうなっていないという感があります。
指紋押捺拒否闘争が開いた地平
そもそも、指紋押捺制度は、犯罪の予防、解決にも役立つということから、日本人一人一人から指紋採取をするということで1948年に発想されました。しかし、人権侵害であるという論がでて実行されませんでした。その一方で、朝鮮人、台湾人からは治安管理上指紋をとる必要がある、となりました。そして日本が独立した1952年4月28日に外国人登録令を登録法に格上げをして、そこに指紋制度が導入されるのです。ところがその当時も大反対があって、制度は3年遅れの1955年から実施され、今日まで至りました。
外国人登録法に違反した場合は刑事罰になります。しかし、日本の制度の住民基本台帳法では、よっぽど悪質な事例がない限りほとんど過料です。外国人登録法では、手帳を常時携帯しなかった、指紋の押捺を拒否した、これで前科一犯となるのです。この問題は非常に大きな盛り上がりを見せました。1985年に、中曽根首相と全斗煥(チョン・ドファン)大統領との間で、指紋押捺の一回制が了解されました。そして韓国政府が一回制を飲み込むということから、オリンピックの献金が無税扱いされ、科学技術協定が結ばれることになりました。その後、指紋押捺制度は、一回制から、永住者からはとらないとなり、今は、全外国人からとらないということになりました。
在日外国人の処遇はこのように推移してきましたが、行政の中では、あたかも政府自体、が改めてきたというトーンで語られます。当事者が声をあげて、血みどろの闘いをしてきたということは相手にとってネグレクトされるのです。しかし、当事者の声があって、変化してきたというプロセスを認識するということが大事だと思います。
多民族多文化共生論の落とし穴
現実の時代要請の中で、語られてきているのが「多民族・多文化共生」です。とても美しい言葉です。しかし、こういう言葉がどうして生まれてきたのか、どういうプロセスを踏んでいわれるようになってきたのかを認識して、知っていかないと、言葉が一人歩きし、これまでの日本の国際化でおこった過ちの繰り返しがおこります。「普遍化」を先行させてはならないのです。
在日韓国・朝鮮人問題を訴え続けて、その経験をしてきた同じような現象がニューカマーズの中でたちあらわれています。ニューカマーズは1980年代から増えました。これは、労働力を確保するという国策からくる現象です。
そして外国人労働者の子ども達が学校に通うとなると、学校は大変です。教材、ノウハウ、予算がない、外国人の子どもまで手が回らないとなります。今でこそ文科省は日本語のわからない子どものために補助教員制度のサポートをはじめていますが、多くの対応を自治体に押しつけているというのが現実です。
経団連は多文化共生庁をつくりなさいという提言を政府にしています。日本の人口は来年あたりがピークです。あとは減少の一途をたどります。今のような日本の経済を維持するためには、年間30万から40万の移民をいれないと、労働力が保てないといわれています。しかし、それを受け入れる日本社会の整備、意識、企業体制がとても遅れていると思います。そうした現実を踏まえた多民族多文化共生論が語られないと、単なるあるべき論としての言葉のみが先行することになってしまいます。
多民族多文化社会に対応できる社会システムの構築
現実は思わぬ方向で展開していきます。日韓関係が急速に展開することになったのは、ワールドカップ以降です。最近は「冬ソナ」現象もあります。日韓関係が急激にかわってきている中で、在日韓国・朝鮮人が生きていく、という上での整備はどうなのだろうか、とふり返ってみるとこころもとないところが随分あります。
アメリカの人権団体を視察した時、サンフランシスコのある日本の銀行の方から人権学習の取り組みを聞いて驚きました。「裁判になって負けると費用がかかるから人種差別に気をつけなさい」ということに力点をおいて研修をしているのです。人権をコスト換算する、そのような形でしか人権研修が進まないというのはたまらなく感じます。そして、そういう感覚の企業は生き残っていけない、衰退の道をたどると思います。今のグローバル化社会の中で、日本が日本として生き残っていくためには、他者を認めること以外にない、そのことにもっともっと深く気づきを覚えることが大事だと思います。
「択一的生き方」から「選択的生き方」へ
私たち在日韓国・朝鮮人の生き方は、かつては追放か同化か、という処遇の中にありました。今や時代は変遷し、3、4、5世が誕生しています。そういう中で考えなければならないのは、国籍、民族、性、階級とは何なのかということです。そしてそれに対応していける企業体質をいかにつくっていくかが求められていると思います。私たちの生き方も色々とでてきました。日本で生まれ、日本名で20歳すぎまで育ってくる、突然に民族名をいわれると、その時点でアイデンティティクライシスをおこします。そこで、悩みながらもふたつの文化を受容しながら、姓は民族名、名は日本名として自己表現する。そして、自分は日本人でもなく韓国人でもない在日の韓国人だ、そこに自分のアイデンティティをおく、というような生き方があります。例えば、このようなことを「多様化」としてみるべきではないでしょうか。
それは、企業(人)が社会の中で人間らしい関係を結んでいく上で大切なことだと思います。そして、人権問題の構造、背景をぜひおさえてほしい、という思いがあります。生きていくための制度の不条理を浮かび上がらせる機会をもち、問題構造をおさえないかぎり、新たな時代を築き上げていくということが難しいのではないかと思います。
データは数字という無機質なものではあるけれど、例えば在留外国人統計などから、みえてくるものがあると思います。都道府県の在日外国人の統計をみていくと、なんと今や3分の2以上の都道府県で第1位をしめているのが中国人なのです。全体としては韓国・朝鮮人が多いのですが、その占める割合は、32.1%まで下がってきています。増えてきているのは中国、ブラジル、ペルー、フィリピン国籍です。数的変化はそこに新たな問題が発生する可能性があるということを示しています。
色々と問題がありますが、私たちは日本社会で生きてきました。私はこの日本社会をよりすみやすくしていきたいと思い地域で実践をおこなっている一人です。みなさんとともに歩みをすすめていきたいと思います。ありがとうございました。
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