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鍛治 致(かじ いたる)さん
| プロフィール
1968年生まれ。1992年から中国の吉林大学に留学し、 1994年から中国帰国者とかかわり始める。東京外国語大学日本語学科、大阪大学言語文化研究科を経て、現在、京都大学教育学研究科にて教育社会学を専攻。大阪府立門真なみはや高校、帝塚山大学、京都産業大学、甲南女子大学で非常勤講師をつとめる。 |
(京都大学大学院教育学研究所博士課程)
「中国残留邦人たちの戦後60年」
2005年6月23日
第1回 多民族共生人権啓発セミナー |
●中国残留孤児婦人の発生と受入の経緯
全国で2,000人を超える中国残留孤児達が国家賠償請求訴訟を起こしていることは皆さんも御存知だと思うが、今回はこの中国残留孤児問題について基礎的なことを話したい。
1932年から1945年にかけて日本は約25万人を農業移民として、中国の東北部で当時「満州」と呼ばれていたところに送り込んだ。ただし「昭和の屯田兵」「鍬の戦士」という言葉からも明らかな通り、彼らは武装した農民であり、5割はソ満国境付近に、4割は抗日武装勢力の活動拠点に入植していた。開拓村は兵站としての性質を備えていたのである。
1945年初夏、兵事部は南方や本土に転用した分の兵力を補填しようとして現地召集を実施。これにより開拓村からは18〜45歳の男性の姿が消えた。また「新京」以南を最終防衛ラインに定めた大本営は関東軍の主力に南下を命令。だが、開拓村についてはソ連侵攻の呼び水となるとまずいという理由で南下させなかった。このため、かねてより関東軍が思い描いていた「ソ連が攻めて来たら兵農一体となりこれを迎え撃つ」という計画はついに実行されなかった。のみならず、関東軍は開拓村から男性を根こそぎ動員し女性と児童を遺棄して自分達だけこっそり南下したと非難されることとなった。
「満州」には約880の開拓団が送出されていたが、1945年に日本へ引き揚げることができたのは8つのみ。つまり、開拓村を追われて難民化した女性や児童は皆どうにかして現地で越冬する必要があった。哈爾濱(ハルビン)などは1月の平均気温が零下20度。この冬を自力で越せずに中国人の妻や養子になる他なかった女性や児童が残留婦人と残留孤児であると考えて良い。なお、在満邦人全体で見た場合、非開拓民は8%が中国で死亡。一方の開拓民は30%が中国で死亡している。戦闘や自決で命を落とした開拓民もいたが、大多数は避難所に至るまでの間に、あるいは避難所の中で、飢えや寒さや伝染病によって命を落としている。
敗戦当初、日本は海外移民の引揚には消極的だった。それどころか「民間人は現地に土着しろ」という方針まで打ち出していた。これには「苦労して獲得した植民地を完全に喪失したくない。せめて移民だけでも置いておきたい。そうすればまたいつか・・・」という野心の他に、当時の食糧事情も関係していただろう。本土人口の約1割に相当する軍人・軍属民間人が植民地・領土の喪失や戦闘の終結に伴い大挙して引き揚げて来る。疲弊した農村や焼け野原の都市は、きっとこれらの余剰人口を吸収しきれない。そういう心配もあったのだろう。
国民党と共産党の内戦が一段落して新中国の建設が軌道に乗った1950年代当初、中国は外国人登録を整備し、留用者を日本に送還する準備を始めていた。中国残留婦人に対しても帰国意志の有無等が聴取されたが、中国人夫やその両親から反対され、あるいは「命の恩人である夫や可愛い子を捨てて自分だけ日本に帰れない」という理由から「今すぐには帰国しない」という道を選択する他なかった者が多かった。また「満人の妻となり子まで生んだ非国民が焼け野原の国土に帰ったところで路頭に迷うだけ。復員した夫も今は再婚しているようだし」と考えた人もきっといただろう。一方、残留孤児については中国人として養育されていたので送還者リストに挙げられるどころか外国人登録の対象にすらならなかった。
1953年以降、中国は多数の日本人を引揚船に乗せた。中国側は1955年になると「政府間には国交がないが人民どうしは大いに交流しよう」「日中人民の力で日本政府に新中国を承認させよう」という政策意図もあってか、中国人男性と結婚した日本人女性を夫婦で引揚船に乗せてよこした。友好使節団のようなつもりだったのかも知れないが、日本側はこれに反発。中国人男性についてはこれを不法入国者と認定。日本人女性については「中国へ戻りたい」という意思表示がある場合は日本国籍を離脱したと見なしてこれを送還した。
1957年、日中国交正常化を目指す石橋湛山が健康上の理由で首相を辞すと、日米安保成立を目指す岸信介が首相に就任。これにより日本の対中政策は一転。岸が外遊先の台湾で国民政府の大陸回復支持を表明したこともあり、日中関係は悪化。中国は1958年に集団引揚の打ち切りを通告した。
翌1959年、日本は戦時死亡宣告制度を導入。たとえ中国において生存している可能性が高い者であっても、在日親族(留守家族)の同意さえ得られれば、運用上は取りあえず戸籍から抹消しても構わないということになった。大阪原告団では4人に1人がこの制度の被害者。日本に帰国してみたら自分のお墓が建っていたという話も聞く。
日中国交が正常化した1972年から2004年までの間に、約2,500人の中国残留孤児と約3,800人の中国残留婦人が永住帰国しているが、これらの人々の永住帰国にも紆余曲折があった。厚生省は「在日親族からの要請がない限り永住帰国を支援しない」「永住帰国後は在日親族が面倒を見るべし」という態度を固持。このため「家族同伴で永住帰国してくる者の衣食住を丸ごと面倒見る余裕などない」とする在日親族と「家族を捨てて自分だけ永住帰国するわけにはいかない」とする残留孤児婦人の間に(本来無用な)対立が生じ、彼女らの帰還事業は前進しなかった。
この膠着状態に風穴をあけたのは身元未判明孤児達だった。「日本人であるに違いないが、身元の特定ができない。このような孤児達をどうするのか」という問題が日中間で協議され、1984年、ついに厚生省は「水際以降は親族に一任」という方針を部分的に修正。「身元未判明孤児に限っては親代わりになってくれるボランティアは国が斡旋するし、帰国後当面の衣食住は国が面倒を見るし、日本の言葉や習慣も国が教える」ということになった。こうして建てられたのが埼玉県にある中国残留孤児定着促進センターである。大阪原告団の状況から推計するに、身元未判明孤児は孤児全体の3分の1。厚生省が未判明孤児世帯の「無条件受入」「永住帰国解禁」を表明したことにより、孤児の永住帰国は一気に加速した。
なお、この風穴は後に少しずつ広がっていき1989年には身元判明の残留孤児が、そして、1991年には残留婦人が、在日親族の賛成・反対に左右されることなく、最低限の生活の見通しを与えられた上で、中国人家族を同伴して、一世帯まるごと、国費で、永住帰国できるようになった。
残留孤児婦人の永住帰国のピークは、それぞれ1987年と1995年。残留孤児については戦後43年目に、残留婦人については戦後51年目に、ようやく祖国に永住帰国を許されたという者が最多数である。日本人が日本に帰る。このごく普通のことが実現するまでに、何故これほどの歳月が必要だったのか。私達はこのことを良く考えてみる必要がある。
小熊英二は『<日本人>の境界』という本で「国民国家が権利を保障する正規メンバーとしての『日本人』から排除される可能性は、『内地人』にさえ存在する。」「朝鮮や満洲に配置された植民者たちも状況しだいで『棄民』として放棄された」と述べている。「満州」の場合棄民となった者は主に女性や児童だった。残留孤児婦人の歴史は、国家にとっての国民が一義的には兵士たる男であり、女性や児童は十全たる国民としては数の内に入らないということを大変よく示している。兵士であれば、たとえ身体が骨になっても、とにかく国が責任を持って国に帰してくれる。だが、女性や児童の場合、国費帰国のためにはそれを願い出る必要がありしかもその手続は必ず在日親族の側から行う必要があった。自分の帰国申請ですら自分でさせてもらえなかった女性たちは、十全な日本国民として扱われていなかったことになる。しかも中国人と結婚したというだけで、あるいは、在日親族が同意したというだけで、これらの人々の氏名が国民原簿たる戸籍からいとも簡単に抹消されてしまった経緯はこれまで見てきた通りである。
●中国残留孤児婦人およびその子の国籍について
御質問があったので回答する。
中国人男性と結婚した日本人女性のうち、中華人民共和国成立前に挙式している者は挙式と同時に日本国籍を離脱したとされ、中国人男性との間に生まれた子も全て中国人となる。
中国人男性と結婚した日本人女性のうち、挙式したことがない者や中華人民共和国成立後に挙式した者は、今も日本国籍を保持しているとされる。なお、中国人男性との間に生まれた子は、その出生時期により国籍が異なる。中華人民共和国成立前に生まれた子は、婚外子とされ日本人として出生したとされる。中華人民共和国成立から1964年の間に生まれた子は、婚内子とされ、中国人として出生したとされる。1965年から1984年の間に生んだ子は、中国人として出生したとされるものの、永住帰国後3カ月以内に手続をすれば、手続をした当日から日本人になれる。1985年以降に生んだ子は、父母のいずれが日本人であるかに関わらず、父母どちらの国籍を継承させても良いし、子が22歳になるまでは子を二重国籍状態にしておくことも可能。
一方、中国人女性と結婚した日本人男性は、婚姻により日本国籍を喪失することはないし、その子についても1984年以前に生まれた子は日本人として出生したとされる。なお、1985年以降に生まれた子については前段と同様である。
ところで、1985年というのは、日本国内において女子差別撤廃条約が発効するのに合わせて国籍法が父母両系主義に改正された年である(それ以前の日本人女性は自分が生んだ子に自分の国籍を継承させる権利を原則として持っていなかった)。なお、当時未成年であった外国人は改正国籍法の施行から3カ月以内に手続をすればその日から日本人になれた。出生年が1964年か1965年かが問題となるのはこうした経過措置との絡みである。
(※冒頭に紹介した裁判については、2005年7月6日に大阪地裁で全国初の判決が出されたが、結果は原告の敗訴だった)
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