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具志アンデルソン飛雄馬さん
| プロフィール
ブラジルに移住した日本人の子孫であり、16年前に来日。来日後、自分自身学校・社会で「いじめ」などの問題に直面し、非行に走る。そこからは想像もつかない波乱万丈な人生を送る。
現在、自分の体験をもとに三重県内の小・中・高校で国際化対応教育指導員として、子どもたちの指導・相談サポートを行っている。また、NPO活動を通じて、実態調査・生活相談事業・署名活動・請願活動や市民、学生、企業、
行政、教師を対象に講演活動を行っている。
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(多文化共生NPO世界人 理事長)
「死んだら終わり、だから生きるんだ
〜多文化共生へのかけはし〜」
2006年3月1日
多民族共生人権教育センター「企業学習会」
2005年度啓発セミナー |
学校での差別、そして非行へ
僕は1990年に日本に渡ってきました。その頃、ブラジルではメディアや企業が「日本へ行きませんか」という広告をかなり出しており、そんな中、1989年に僕のお父さんも他の親戚たちと一緒になって日本に渡っていました。そして、その翌年に入管法が改正されると、お父さんから「来てみたら非常に住みやすくていい所だから、家族みんなで来てみなよ」という電話があり、1990年2月に家族も日本に渡りました。最初は「みんなで3年間働いたら国に帰ろう」というのが家族の計画で、当時11歳の僕も、小さな下請け工場でアルバイトをしました。もちろん不法ですが、当時は12〜17歳くらいの子もたくさん工場で働いていました。そうしているうちに、僕の姿を見た会社の人が「こんな子どもは学校に入れるべきだと思う」と言って教育委員会に話をしに行き、僕は小学校に入ることになりました。当時は日本語が全くわからず、ただ「楽しく過ごせればいいな」という気持ちでいっぱいでした。
学校に行くと、最初は子どもたち5、6人がいつも僕の家に集まってきたりして、楽しいなと思ったこともありましたが、2週間も経つと様子がおかしくなり、子どもたちは僕に声をかけなくなりなりました。そして、サッカーやドッジボールをしているときに背中を押されたり、後ろから蹴飛ばされたりするようになり、さらには、学校への行き帰り、休み時間、トイレの中などで、蹴る殴る、棒で叩く、傘で突くという状況が毎日続くようになりました。
この時は、「ジャパニーズなのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないんだろう」と思って、複雑な気持ちでした。僕は確かにブラジル生まれで、ブラジル人ですが、曾祖父と曾祖母、父が沖縄から渡り、母の家族は京都から渡っていたので、ブラジルではずっとジャパニーズと言われていました。ところが、日本に来てみたら、「お前は日本人みたいな顔をした外人だ」とみんなから言われたわけです。それでお母さんに、「ブラジルに帰りたい」と言うと、「そんな弱い子を産んだ覚えはないよ。今ブラジルに帰れば、みんなに笑われるじゃないか。だからとにかく頑張りなさい」と言われました。
結局、小学校を卒業する時が来ても、いじめはなくなりませんでした。けれど、あきらめずに「いつか絶対日本人より日本のことを知り、日本語を上手に話せる人間になってやる」と強く自分に言い聞かせ、中学生になっていきました。ところが、状況は一段と悪くなってしまいました。敬語がわからなくて先輩からいじめられ、また、「英語はかっこいい、ポルトガル語はダサい」と言われる中で、「何で僕の祖先はアメリカに移住しなかったんだろう。アメリカに移住していれば、自分は絶対尊敬されたのに」といったことばかり考えるようになりました。
そしてある日、トイレの前である生徒に胸倉をつかまれて文句を言われた時に、我慢の限界が来ていたのか、気がついたら拳を振っていました。すると相手の右目の下が切れて、血が流れ出したのです。それで先生にものすごく怒られて、お父さん、お母さんも学校に呼ばれて校長先生に怒られました。そして、大きな果物籠を買って相手の家に見舞いに行くと、向こうのお母さんは「外人からこんなもの貰ったら汚らしいんじゃ。持って帰れ」と言い、向こうのお父さんは「ここは日本なんやから、日本式で謝れ」と言って無理やり僕を土下座させました。
それで、「耐えられない。日本人は誰も信用できない」と思い、2年生の後半から学校を休むようになりました。そして、空手2段だった僕は「自分を守るだけの日本語の能力がないなら、もう自分の空手を武器にするしかない」と思って、時々学校に行っては喧嘩やトラブルを起こすようになっていました。結局、中学校でも何も変わらずに終わってしまいました。
でも高校には行きたかったので、先生とも相談して、定時制高校に入学しました。そこで、初めて偏見もなく受け入れてくれる生徒に出会いました。その子は「君に言ってもわからへんやろけど、実は俺は部落という所の出身なんや。だから、俺たち深くまでは理解し合えないにしても、絶対仲良くなろな」と言ってくれて、友達になっていきました。けれど、その高校でも、「この学校に外人がおったんか」と言われ、我慢できず、ある日の放課後に学校の裏で大暴れしてしまい、結局学校を辞めました。
その影響で仕事も辞め、親が文句を言うようになると、僕は家出をし、高校での唯一の友達とともに暴走と喧嘩の毎日を送るようになりました。「良くないことをしている」ということは理解していたのですが、「日本に来て初めて自由になった。生きている気がするなら、悪いことであってもいい」と思うようになって、気がつけば地元で知られる存在となり、周りに不良たちがどんどん集まってきました。そして、しばらくすると暴力団に目をつけられ、愚連隊、暴走族を結成し、その直後、ある事情から傷害事件を起こして逮捕されました。最終的には保護観察処分となったのですが、全く更生せず、社会に戻った後も愚連隊や暴走族で活動し、最終的には数百名を率いる総会長になりました。
また、僕は20歳で父親になっていて、その翌年には2人目も生まれましたが、それにも関わらず、その頃にはヤクザになろうとしていました。もうすぐ20歳になるという頃、当時一番尊敬していた人から「今までお前にはずっと黙ってきとったけど、ワシは日本人と違うんや。朝鮮人なんや。何でワシがヤクザになったのかというと、どんなにまじめに頑張っても日本社会では認められへんからや。国は違うにしても、お前も同じやないか。一緒にヤクザになろう」と言われたのです。自分は「いつかまじめになろう」という思いはあったのですが、「俺の人生も真っ暗だな。もうヤクザしか生きる道がないのか」とも思うようになり、必死に悩みました。
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具志アンデルソン飛雄馬さん(右) |
営業マンへの転身、父の死
そんな時、奇跡のような出会いがあったのです。僕のお父さんは人材派遣会社に勤めていたため、人との出会いがすごく多くて、ある日「この人なら何とかうちの子を更生させられるだろう」と思って、ある会社の社長を僕に引き合わせてきました。僕は最初ずっと無視していましたが、社長はあきらめずにずっと声をかけてきました。そして、半年が過ぎた頃から、「この社長の話も理解できるよな」と思うようになりました。
この方は、「ワルの世界しか知らない奴に説教したって立ち直るわけがない。とにかくこいつにはいろんな生き方があるということを教えてあげなければ」と考えていて、芸能関係者、政治関係者、企業の社長などいろんな方に会わせてくれました。それは、1つの世界しか知らない僕にとってはすごく刺激的でした。そして、初めて自分を変えたいと思うようになりました。
それで、すぐ暴力団の組織から抜けようと思い、話をしにいきました。ところが、「お前、今から殺したろか。そんなもん、すんなりいくわけないやろ」と言われ、怖くて結局やめられませんでした。でも、「自分はいつかやめるんだ。だから今のうちに新しい生き方を作っておかなければ」と思っていました。
この時気になったのが、僕を救ってくれたあの社長のことでした。ある日何の会社の社長なのかと聞いてみると、自然食品を販売する会社の社長でした。すぐに「その仕事を僕にもさせてもらえませんか」と聞くと、社長は「給料は歩合制、内容は営業。それでもいいならやってもいいぞ」と言いました。そして、「ひょっとしたら自分を変えられるんじゃないか」と思い、営業の世界に入ることにしました。
それで、半年間いろんな訓練を重ね、営業に出るようになりました。ところが、「私、○○会社の具志アンデルソンという者ですけれども……」と言うと、その時点で「えっ、外人さん? ごめんな、よろしいわ」で終わり。その時は「この世界でも、日本人じゃないというだけでこんなに壁が厚いのか」と感じました。そして、全く売れない中でだいぶん悩み、また社長に話をしに行きました。すると社長は「今日から『アンデルソン』を抜いて、『具志飛雄馬』と名づけよう。そしてあきらめるな。とにかく学習しろ。中途半端が一番ダメなんだ」と言いました。その後、僕はさまざまな分野について学習し始め、営業に必要な最低限の知識を、死ぬ気で頭に叩き込んでいきました。
すると、不思議なことに商品が売れるようになっていきました。「あんた親におもろい名前もろたな。具志飛雄馬いうたら、具志堅用高の『具志』と、星飛雄馬の『飛雄馬』で……」とよく言われて、「はい、そうなんです」とか言っているうちに商品が売れるようになっていったのです。これはある意味複雑でした。自分の本当の身分を隠してでも生きていかなければならないという現実に、何とも言えない気持ちでした。
こうして、月1万円も稼げなかった給料がどんどん上がってはいきましたが、ある日、我が家に1つの悲劇が起こってしまいました。僕のお父さんが突然、過労によるクモ膜下出血で倒れてしまったのです。すぐ病院で手術を受け、成功したものの、もう心臓も肝臓もボロボロということで、集中治療室に入っていきました。それを見た時、僕は自分にこう言い聞かせました。「今までお父さんには迷惑しかかけたことがない。1回だけでいいから、お父さんに自分の立派な姿を見せたい」と。
そして、「全国人気販売員」という大会を見つけ、エントリーすることにしたのです。これは、全国の販売員の中で1位から150位までを決めるというもので、半年間いろんな項目の中で争っていくのですが、「150位以内に入って雑誌に名前が載れば、お父さんに見せられる」と思って、死に物狂いになって頑張りました。そして、周りの人々の協力もあり、2位に入ることができました。その時、みんなは「具志君、お前はまだ23歳やで。絶対あきらめるなよ。後数年もすれば、この世界で大成功者になれる」と言いました。
けれど、僕は社会的に偉くなりたかったわけではなく、金持ちになりたかったわけでもありません。ただ一つだけ叶ってほしいことがありました。でも結局叶いませんでした。大会の結果が出る前に、既にお父さんは亡くなっていたのです。葬式の時、自分は一粒も涙を流すことができませんでした。泣きたくなかったわけではないのです。でも「俺が非行に走ることによって、お父さんを苦しめて殺すことになってしまった。俺は泣く資格もない人間なんだ」と思って必死に涙をこらえました。そして、いろいろ悩んだ末「こうなったら、あの世で父に謝るしか俺には許される方法がない」、つまり自殺を考えたのです。
あれだけ営業ができていた自分が、今度は半年間家に閉じこもって毎日自殺の方法ばかり考えていました。そんな僕をずっと励ましていたのが、妻や子どもたち、あるいは高校での親友でした。ところが、ある日その親友のお父さんが交通事故で亡くなってしまい、完全に狂ってしまった2人は「生きることがこんなに難しいとは思わなかった。もう疲れた。こうなったら俺たち死ぬか、刑務所に入ろうぜ」と話し、1週間後に事件を起こして逮捕されました。
「多文化共生NPO世界人」
再び留置場で過ごす中で、ある日子どもたちが面会に来ました。その時長女は2歳前、長男はまだ1歳前で、歩けませんでした。面会の時、長女は面会室の窓ガラスを必死な顔で叩いていました。その時の目が、「何でパパはガラスの向こう側にいるの」という目でした。それを見て「俺は1人の父親として何やってるんだろう」と思いました。
そして、あるおっちゃんとの出会い。当時、週に1〜2回、30分だけ外(といっても、コンクリートの壁に仕切られた場所)に出ることができたのですが、ある日、そこで60代のおっちゃんと一緒になりました。おっちゃんは僕の顔を見て、すぐに「兄ちゃん、話をしよう。お互い顔を向き合いながら、教官にばれないようにすれば大丈夫や」と言ったので、僕は「何でおっちゃんみたいな人がこんな所にいるんですか」と聞いてみました。すると、「おっちゃんには家族も仕事もない。ここに来たら、ご飯は食べられる。病気になっても診てもらえる。もうこれしか生きる方法がないんだよ」と言い、しばらくすると涙を流し始めました。そして最後に、「おっちゃんは今回たぶん刑務所の中で死ぬことになると思う。兄ちゃん、社会に戻ったら、おっちゃんの分まで頑張って生きてや。何があっても、二度とここに戻ってくるなよ。おっちゃんとの約束やからな」と言いました。僕は涙をこらえ、「おっちゃん、最後まで体大事にな」と言い残して部屋に戻りました。部屋に戻ると、とにかく泣けてきて、「何で俺は現実から逃げてるんだろう。まだまだ若いのに。その気になりゃ何だってできるのに」と、自分が本当に情けなくなりました。
同時に、「これが不景気による日本の現状なんだな」ということも強く感じました。こういう場所にいるのは、若くて怖い顔をした人ばかりかと思っていましたが、そうではありませんでした。自分の目で見た限り、僕の入った所は50%以上が高齢者でした。この時、「社会に復帰したら、絶対人のためになることをするんだ」と自分に言い聞かせ、2つの決断をしました。それは、社会に戻ったら、若者たちが僕のような過ちを犯さぬよう何らかの活動を始めること。そして、ビジネスグループを再形成し、将来高齢者の方々が安心して暮らせる施設を設立することでした。
社会に復帰すると、早速覚悟を決め、暴力団から自分の組織を解散させました。そして、ビジネスグループも再形成し、活動を始めていきました。そして、やはり子どもたちに関わってみたいという気持ちが一番強くあったので、教育委員会に行きました。最初は話にもなりませんでしたが、何度も足を運ぶうちに理解してもらえるようになり、おかげさまで今ではどんどん状況が変わって、三重県内の小・中・高校での日本語指導員または子どもたちの相談サポート、言葉の教室、全国での講演活動、外国人問題に関する新聞連載記事の執筆、グシグループでの「クリーバ基金」の形成・運営、日本語学習支援サイトの設立などに携わっています。
三重県内の外国人登録者数は1988年には10,441人だったのが、2004年には43,621人、県内総人口の2.29%を占めるようになり、国籍数は94にも及びました。ところが、それを受け入れるための態勢が十分に整っていないため、いろんな問題やトラブルが生じてきました。すると、自分が個人的に頑張っていくにも限度があるということで、昨年「多文化共生NPO世界人」を立ち上げました。これは、将来的に日本人も外国人も同じ世界人として、世界に目を向けられる子どもたちに育ってほしいという願いを込めて名づけました。そして、実態調査、教育指針の見直し、日本語と母語学習の保障、企業での人権理解などを求めるため、県への請願と署名活動を行ったほか、県議会でもいろんな提言をさせて頂きました。
多民族国家とは、多民族が共に生きていく社会です。今日も「多民族共生企業学習会」と聞いて、「お互い、目指してるものは同じなんじゃないかな」と思いました。だからこそ、僕は「いつか日本社会の中でお互いを尊重し、共存できる社会が訪れたらいいな」と日々願い続けています。確かに僕は日本人に差別もされました。でも同じ日本人に救われたからこそ、今の自分があると思っています。ですから、今では胸を張って言うことができます。「日本人も、日本も、そして人間そのものも大好きである」と。
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