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姜 仁秀(カン・インス)さん
| プロフィール
1944年、山口県生まれ。朝銀山口信用組合を経て1969年独立以降、建設業、墓石墓地分譲会社などを設立。1992年、広島県高田郡(現安芸高田市)八千代町に「八千代病院」を開設。2005年には広島市内に有料老人ホーム「メリィハウス西風新都」を開設。また、広島韓国商工会議所会長と在日韓国商工会議所副会長も務める。昨年、老人福祉や地域貢献が評価され、国際韓民族財団から「誇らしい韓民族賞」を受賞。
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(医療法人社団八千代会 八千代病院 理事長
有料老人ホーム メリィハウス西風新都 会長)
「福祉・医療を通して在日として生きる」
2006年5月25日
多民族共生人権教育センター
第7回総会 記念講演 |
山口で病院を開設
私は山口県の宇部にある沖ノ山炭鉱の炭住街で1944年7月に生まれました。父は太平洋戦争のとき、強制連行で炭鉱夫として連れてこられ、私はその炭住街で産声を上げました。
高校生の時、「日本にいたのでは先の希望が見出せない」ということで、当時「地上の楽園」と言われていた北朝鮮に帰って自分の好きなことをしたいと思って、自分で市役所に帰国申請を出したことがありました。すると何日か後、夕方家に帰ると、父からいきなりビンタが飛んで「お前は市役所に行って何をした!」と言われました。何のことはない、未成年なので親の同意書が要るということで、私の留守中に市役所の人が訪ねてきたのです。その前に、私の姉さんと初孫が嫁ぎ先の家族と一緒に帰国してしまったために、両親はしょげ返っていました。それで、両親の悲しそうな顔を見て、私は帰るのを諦めました。
その後、総連(在日本朝鮮人総連合会)系の朝銀山口信用組合ができると、知り合いから「日本にいながら同胞のために働けるし、朝鮮語も歴史も覚えられる」と勧められました。それで、下関の朝銀に勤めましたが、いろいろ思いがあって6年でやめて、その後は自分で金融業とか建設業、墓苑の開発とかいろいろなことをやりました。
でも、私は小学校時代、図書館で野口英世の本を見てすごく感動し、「医者になって、世のため人のためになりたい」と思ったことがありました。そして、ちょうど金融業が嫌になってきていた頃、日本人の親友の家にいた寝たきりのおばあちゃんが亡くなられるということがありました。その時、友達は「やっと厄介者が済んだ」と喜ぶのです。それを見た時、私は違和感を抱き「これはかつての『姥捨山』の延長線上にあるのか」と思うと同時に、子どもの頃に抱いていた「医者になりたい」という夢が蘇ってきたのです。それで、29歳の時に金融業を辞め、山口県の、温泉つきのホテルを買ってそれを改造する形で病院を2か所作りました。
病院は大成功でした。でも、その頃私はまだ若く、今思うと、調子に乗り過ぎていました。38歳の時、毎晩毎晩クラブを飲み歩いているうちに、ある日病院の幹部からとがめられて口論となりました。そして、結局その幹部は首になりました。すると、彼はその恨みから、当時病院の看護婦の数が法で定められた定数に足りていなかったことを保健所に訴えてしまったのです。また、私のような新参者が医療界に入ってくることを苦々しく思っていた地元の医師会が、首にした幹部と結託してマスコミを抱き込んだため、マスコミが騒ぎ出し、連日書き立てられました。そうした中で、子どもは「学校に行けない」とおびえ出し、妻は買い物にも行けないという状況になりました。
私はそれまで「男というのは、能力と体力と行動力があれば、自分の好きなようになる。家内にお金さえ渡しておけば、男の役目はそれで十分だ」と思っていたのですが、こうした状況の中で、父親としての責任を痛切に感じました。これではいけない、このままでは一家がつぶれてしまうと思い、小学生だった子ども2人を大阪の岸和田にいる従兄の所に預け、私は病院を次の人にバトンタッチすることにしました。
結局、私は1年3ヶ月拘置所にいました。でも、今から思うと、本当にいい経験でした。後で子どもが「あのままのお父さんだったら、自分たちも横着な子になっていた」と言うのです。けれども、私が捕まって、全部整理整頓したことで、子どもたちは喜んでくれました。その時引継ぎをした2つの病院も、今立派にやっております。
八千代病院の開設
中国地方の中核都市は広島です。私は広島に出て一暴れしたいと思っていたので、広島に土地を確保していました。そして、広島で純粋な気持ちに立ち返って一から出直そうと誓いました。でも現実は非常に厳しいものがあります。病院の許認可がどんどん厳しくなってきて、誰もまともに相手をしてくれませんでした。県の医療行政は医師会の方ばかりを見ていて、「あなたは審査の対象ではありません」と言われました。私は力もないし、医者でもない。しかも韓国人だということもわかったのでしょう。どこの誰かもわからない男が、儲け主義・企業的な病院を作ろうとしていると皆で反対されました。
あっという間に3年が過ぎました。許可の見通しも立たない中で、夜も悶々として眠れませんでした。ところが、ある日ふと気づいたのです。「自分は役所にばかり通っているが、建設予定地の近所の住民や有権者はどう思っているのだろうか。主権者はやはり住民、有権者じゃないか」と。それで、県庁や保健所に行くことはやめて、有権者の皆さんに意見を聞きながら賛同署名をもらおうと一軒一軒戸別訪問をしていったのです。
これも気の長い話です。有権者の過半数から署名をもらうとなると、何千にもなります。実りのない、つらい迷路に入ったのではないかと思って、自分が嫌になることもありました。また、その時ちょうど豊田通商事件というのが世間を騒がせていまして、私が戸別訪問をしても、戸をぴしゃっと閉められて、不審者と思われてしまうのです。
それであきらめかけていたある日、80歳前後のおじいちゃんに会いました。「頑固そうだし、話してもだめだろうな。でも無駄ついでに聞いてみるか」と思って、傍に座って私の思いを話してみたのです。すると、聞いてくれるのですよ。そして、署名もしてくれ、さらに「何人か紹介するから、同じ話をその人たちの前でしてみろ」と言うのです。それで紹介してくれた人のところに行くと、同じくらいの年頃のおじいちゃんが「あの頑固な爺さんがよく書いたな。それなら、わしも書こうか」と、署名してくれました。それから、次から次へと署名してくれる方を紹介してもらえるようになりました。
その後半年間署名を集め続け、結果的には有権者の78%の方の賛同署名が集まりました。署名は町議会でも採択され、その時の町長も賛同書を付けてくれました。私が喜び勇んでそれを保健所、県の方に持って行くと、今度は丁重に受理してもらえました。その時、あれだけ苦労をかけた妻が「ご苦労さまでした」と言ってくれたのが私にとっての一番のプレゼントでした。やはり最後は家族だとつくづく思いました。
1992年5月、私が再起を賭けた八千代病院のオープンが近づきました。でも、また問題が起こりました。職員を募集すると、最初はあちこちの病院のはみ出し者、厄介者が、新規開業の所で一暴れしてやろうという感じで来るわけです。それでグループを作り、グループ同士でやり合うのです。でも、結論から言えば、これも4年かけて鎮圧しました。私は、彼らが医療の道を志したときの初心、良心に訴え続けました。個別に呼んでとくとくと話をすれば通じるものです。能力があるということも大事ですが、やはりいい目的を持ち、成功するまで継続的に繰り返すということが一番大切だと思います。今では当初問題児だった人たちが主任とかになり、私を本当によく支えてくれています。
メリィハウス西風新都の開設
八千代病院に入院する高齢者の7、8割は広島市内から来られる方でした。それで、距離が遠いため、広島市内にもう一つ八千代病院を作ってほしいという声がありました。そして私も、八千代病院がオープンして10年ほど経ち、お金も人も揃ったかなという状況になって、「市内に出てみたい」と思うようになりました。
当時、広島市内に西風新都という計画都市がありました。それは12年前に広島市がアジア大会を誘致したとき、メイン会場のすぐ傍につくったものです。その目の前には広域公園があり、私は「あそこに老人ホームを作ったら、入居者の方々が自分の庭のように利用できる」と思い、不動産屋の門を叩きました。そして、3次にわたる審査の結果、またとない理想的な立地の老人ホームを作ることができました。
オープンの日は、生涯に残る記念の日になりました。広島近郊の、有名で力のある病院の院長さんたちがこぞって出席されました。そして、民団(在日本大韓民国民団)、総連、帰化した方々を問わず、知っている限りの人に招待状を出したところ、多くの在日同胞たちが来られ、「今日は在日として晴れ晴れしい日だ」と喜んでくれました。司会者が私の名前を紹介してくれた時、「在日として本名を通して、やるべきことをやれば、日本人だろうが何だろうが関係なしにみんなが集まってきて、こうした晴れ晴れしい日を迎えることができる」と思いました。
「在日」として生きる
今でも職員やスタッフの中には、「日本名を使ってくれたらいいのに」と言う人もいます。でも私はこう言います。「ハンディがあるのはわかる。でもそのハンディを一緒に乗り越えよう。八千代病院、メリィハウスが選択肢の最有力候補になるように持っていこうじゃないか。ハンディを努力目標としてとらえよう」と。
そのことで、言っておきたいエピソードがあります。今から2年くらい前の夏の暑い日、私が病院内を1人で歩いていると、私と同じ年頃の人が、自分のお母さんを乗せた車椅子を押して私の方に来るのです。そして、「ここの病院のオーナーは韓国の人と聞いたのですが、本当ですか」と言いました。「そうですよ」と答えると、「私の母は八千代病院にお世話になって2、3年になるのですが、見舞いに来るたびに『先生や看護婦さんがみんなよくやってくれる。この病院を選んで本当によかった』と言います。家族もみんなそう言っています」と言い、続けて「実は、オーナーさんにお詫びしておかなければならないことがあります」と言うのです。「何でしょうか」と聞くと、「この病院を選ぶ時に家族の中で喧々諤々の議論があったのです。『あの病院は経営者が韓国人じゃないか、何であそこを選ばなければいけないのか』ということで。でも、何か所かの病院の料金やシステムなどを見ていく中で、どうしても八千代病院を選ばざるを得ませんでした。その時は、正直言うと屈辱的な思いでした。けれど、今見てみると、皆さん本当によくやって下さっていて、この病院を選んで本当によかったです。私は朝鮮人、韓国人に対し強い差別感を持っていました。今ここで改めてお詫びします」と言ってくれたのです。私はその時、「この仕事をやっていてよかった。韓国人として堂々と生きてきてよかった」と思いました。私は民団などでの役員もしていますが、よく若い人たちとかに「歴史問題、地方参政権の問題などいろいろ権利を主張しているが、われわれも日本社会に生きている立場から、日本の人よりも言葉遣い、マナーといったことが優れていなければならない」と言っています。そうでないと、「差別を無くせ」とか「歴史問題に向き合え」とか言っても、「またうるさいこと言うな」とさらに差別されるだけだと思います。相手が「悪かった、差別するような相手じゃなかった。ものの考え方、言葉遣いなどが差別している自分よりも優れている」と心底気づいた時に、差別は氷解していくのではないか、私は自分自身の経験からそのように思うのです。
広島新球場建設への想い
広島市民球場は終戦直後に建ったもので、かなり老朽化しています。それで、ある日地元の新聞に「地元の商工会議所が音頭を取って新しい市民球場をつくる」という記事が大きく出ました。広島県下には13の地区の商工会議所があるのですが、私はその記事を見て、すぐに私が副会長を務める広島日韓親善協会を通じて「広島韓国商工会議所を14番目の商工会議所に加えて頂き、新しい市民球場を作るお手伝いをさせてほしい」という名乗りを上げました。同胞たちはびっくりしました。やはり総論賛成、各論反対で、目的はいいけれど、では誰がどのくらいのお金を出すのかという話になると、二の足を踏んでしまうのです。私も勝手なことはできないので、民団の団長さんとか主だった人に話をすると、「厄介なことに首を突っ込むな。日本の人たちがやるから放っておけ」とみんなから反対されました。それに対して私は「みんなが注目する広島カープの球場だし、われわれの中にもカープファンは多いのに、新しい球場を作るという時に協力せずに、大手を振って観に行けますか。われわれにとっても『韓国人ここにあり、われわれも県民の一員だ』ということを示すビッグチャンスだ。何も言わずに、私に任せてくれ」と言いました。
それで、『冬のソナタ』でペ・ヨンジュンさんの恋敵役を演じていたパク・ヨンハさんと連絡を取り、市民球場を借り切ってイベントを開いたら、ご婦人たちの多いこと多いこと(笑)。結局1万6千人集まり、相当な募金が集まりました。その模様はテレビでも放映されたし、地元の新聞にも取り上げられました。韓国人が音頭を取って行ったということで、広島の中で大きなエポックになったのではないかという気がします。
人権問題への取り組み
私は加藤博さんが事務局長を務める「北朝鮮難民救援基金」にも関わっています。中国の旧満洲の地域に朝鮮人の自治区があるのですが、そこで脱北した女性の人身売買という問題が起こっています。現地の朝鮮人農家の嫁として辺鄙な所に行かされ、そこで子どもができ、その後いろんな事情で離婚すると、また他へ売られていくという問題があります。すると、子どもが取り残されて路上生活者となって、学齢期になっても勉強する場所、機会がないということが起こってきます。そんな中で、加藤さんとも相談して、人道的な立場で何とかしようということで、孤児院を作ることになりました。この5月28日に起工式を行います。現地の行政からも「人道的な立場で何とかしたいが、お金がない。お金を出してくれるなら行政としてのサポートをする」という確約を頂いています。
また、話は変わりますが、5月28日の夕方に、横田めぐみさんの夫とされる金英男(キム・ヨンナム)さんのお母さんとお姉さん、そして韓国の拉致被害者家族会の人たちが来られます。そこで、在日韓国商工会からの慰問金、励ましの言葉を送る予定です。これは、私が商工会の主だった人たちを前にして提案しました。その時私は「民団と総連が大同団結するのも喜ばしいことだが、横田めぐみさんの件は日本社会から見て心痛余りある。そのことを慮った時、日本にいるわれわれとして、総連系であろうが民団系であろうが、人道主義、人権の問題として『あれはいけないことだ』となぜ平壌に向かって言わないのか。自分たちの人権についてはあれこれ要求するのに、あまりにも身勝手ではないか。民団と総連が話をする前に、拉致問題、脱北者問題について明確なコンセンサスを得ない限り、次のステップを踏めないし、踏んではいけないのではないか」と強く抗議したのです。
やはり自分の人権、権利を主張するのであれば、他人の痛みとも共通の問題として捉えなければ話になりません。私が、パチンコでたくさん儲けて、いつもベンツの最新型に乗っているような人に「朝鮮族の孤児院を作らなければいけない」という話をすると、彼らは「政治のことはわからない」と言うのです。そんな時、私は「政治というのは人間の生き様と同じだ。自分が人間らしく生きること、人間を幸せにすることが政治の根本だ。経済さえよければいい、政治はわからないというけれども、政治と経済はコインの裏表だ。どっちもなくてはやっていけない。浮いたことをしていたらいつか自分にはね返ってくる」という話をしています。
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