多民族共生人権教育センター
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講演 梁釀一(ヤン・ヤンイル)さん 「ちがいを豊かさに〜多民族・多文化共生社会の創造をめざして〜」

ちがいを豊かさに〜多民族・多文化共生社会の創造をめざして〜

梁 釀一(ヤン・ヤンイル)さんプロフィール

 1967年大阪生まれの在日コリアン三世。大阪市の公立小学校教員、教育相談員を経て、2005年より不登校や軽度発達障害の生徒を支援する大阪YMCA 国際専門学校表現・コミュニケーション学科の主任を務める。その他に大阪教育大学・四国学院大学講師として、教員志望の学生を対象に人権教育のトレーナー養成にも取り組んでいる。全米最大の人権団体「Anti Defamation League」(反名誉毀損同盟)公認の「多様性教育ファシリテーター」認定資格を持つ。

2006.6.20(火) 2006年度 第1回 多民族共生人権啓発セミナー

講師:梁 釀一(ヤン・ヤンイル)さん
〔大阪YMCA国際専門学校 表現・コミュニケーション学科主任〕


●問題解決に求められる発想の転換

梁 釀一(ヤン・ヤンイル)さん 人権研修や講演に招かれて話をすると、大抵の場合「ああ、またか」、「もう暗い歴史や差別の話は聞き飽きた」といった雰囲気なのです。やればやるほど、かえって人権というものに対する苦手意識や拒否感が生まれてきて「人権というのは難しい」、「私には関係ない」という話が出てきます。なぜかと言いますと、必ず教えられるのが「差別はいけません」とか「いじめをなくしましょう」といったスローガン、主張だからです。従来の人権教育や人権啓発で何が足りないのかと言うと、「では、どうしたら具体的にこのトラブルを解決することが出来るのか」とか「私が今、みんなとの関係の中で抱えている困難、いじめとか差別を解決することが本当に可能なのか」といった人権を擁護する具体的な解決方法の学びが抜けているのです。そのため、頭ではわかっていても、いざそういう場面に出くわしたら、リスクを恐れて傍観してしまうことが多いのではないでしょうか。
 そういう意味では、在日外国人問題の解決とは“民族差別をなくし、多民族・多文化共生社会を創る”という答え自体は既に出ているわけです。あとは、実現のためにどのようなプロセスが必要なのか、その答えを作ることが自分の生き方、住んでいる地域社会、勤めている職場にとってどんなに大切なのか。そしてそれをどう共有できるか、といった具体的な働きを考える段階に来ているのではないでしょうか。

●在日韓国・朝鮮人として生きる〜私の体験からの在日史〜

 私自身、高校卒業まで日本の名前で生まれ育っていました。親も在日韓国・朝鮮人としていい思いをした経験がほとんどなかったので、隠して生きるというのが習性というか、そういうものだと思っていました。ところが、小学校のとき、何かトラブルがあるとすぐに、普段仲のいい友だちが「チョーセンジン」とか「朝鮮帰れ」とか言いました。その時、「チョーセン」という一言で石のように硬くなって、何も言うことができませんでした。中学3年の時には、ただ朝鮮人というだけでクラスのみんなからいじめられた経験があります。学校では、自分のアイデンティティをきちんと受けとめてくれるような学びや出会いもありませんし、親に言っても「我慢するしかない」とかいった言葉しか返ってきませんでした。
 その後、ある私立高校に進学すると、ある意味「歪んだ解放」が訪れました。ちょうど家が引っ越して、その地域に住んでいる人は、私か朝鮮人だとは誰も知らない。行っている高校にも地元の中学から行った人は誰もいない。それで「もう韓国人、朝鮮人だと言われなくて済む」という「歪んだ解放」が訪れたわけです。そこから伸び伸びと高校生活を楽しみ、スポーツにも打ち込んで、クラブ活動で全国大会に出たり、国体の代表に選ばれたりもしました。ただ、その一方で「いつかバレるのでは」と思ったり、あるいは卒業後の進路のことで不安になったりすることもありました。
 高校3年生の秋、全国大会で活躍できたこともあり、スポーツ推薦で東京や関西の有名大学あるいは企業に行けるだろうと思っていました。それで、ある時担任の先生に自分の希望を言うと、「君、推薦ないし、斡旋できない」と言われたのです。びっくりして「何で僕はダメなんですか?」と聞くと、担任が一言「君は韓国人やからダメなんや」と言いました。その時「それは差別や」と怒ったのかというと、そうではありませんでした。その瞬間、頭が真っ暗になりましたが、差別的な扱いに対する憤りよりも「ああ、やっぱりな」とあきらめが先立ったのです。そのあたりから精神的に非常に荒れていきました。ところが、追い込まれていく中で「逃げたり隠したりして生きるのはもう嫌だな。それなら、どうなるかわからないけど、民族名を名乗って生きてみようか」と考えるようになりました。それで、高校卒業の時に民族名を名乗り、そこから「生き方を変えていこう」と思うようになりました。そして、大学4年間の中で、いろんな人たちと出会いながら「自分」というものを作っていく作業をしていったのですが、卒業の時、当時バブルの絶頂期だったにもかかわらず、なかなか就職が決まりませんでした。ある韓国系の金融機関からは内定をもらっていたのですが、ちょっと自分には合わないと思ったのと、もっと自分の可能性を試したいという思いもあったので、他の企業に申し込んでみたりもしました。ところが、面接の時に名前と国籍がひっかかり、「うちでは外国人は採りません」と言われました。「適性とか実力とかも測らずに何で名前や国籍だけで見るのですか」と言うと、「会社の方針です」と。高校時代はあきらめて何もできませんでしたが、その時は「それは公正ではなく、差別だ」ということで、改善に自ら取り組み、最終的に会社に謝罪してもらいました。そうした中で、企業が無理なら教育関係の仕事をしたいと思っていたこともあって、卒業後は教育の道に進み、今に至っています。

●未来に絶望し、自暴自棄になった若者たち

梁 釀一(ヤン・ヤンイル)さん ここでは、かつて私の教え子たち、あるいは自分が体験したことの代表的な例をお話します。まず「韓国人は頑張っても先生や校長にはなられへん!!」。これは1991年の話です。実は大阪では、公立の小・中学校において、韓国・朝鮮にルーツのある子どもたちのアイデンティティ保障の一環として、放課後に民族学級・民族クラブという取り組みがあります。 そこで、一生懸命韓国語とか韓国の文化を勉強していた優等生の女の子がいました。ところが、ある時を境に民族学級で非常に悪態をつくようになった。「どうしたのかな」と思って注意しても「うるさい」とか、「うっとうしいねん」とか乱暴な言葉を返してくるのです。いつもの姿からはかけ離れた言動だったので、放課後に「どうしたん?何があったん?」と聞いたら、急にワーッと泣き出して「韓国人は何やっても損や。頑張っても先生や校長になられへんやんか」と言うのです。1991年といえば、日本と韓国政府の間で、在日韓国・朝鮮人の法的地位とか生活権の問題についての話し合いが進められていた時期でした。その時、文部省(当時)は外国籍教員の採用について、「教員採用試験は全国一律にし、教諭ではなく常勤講師として採用する」と決めました。しかも同時に、主任、教頭、校長といった管理職にもならせないという決定もしてしまったのです。その子は元々教師志望で「私、頑張って学校の先生になるねん。校長目指すねん」と言っていた子なのです。ところが、そういうことが連日マスコミで取り上げられたため、非常に敏感で多感なその子はそれを見聞きして自暴自棄になってしまったのです。学校で一緒に席を並べている子どもたちなのに、日本人の子どもたちは将来の夢を語り、もう一方では「ああ、私は韓国人やからあかんな」と悩んでいる。そのことをお互いに知らないまま育っている。これで本当にいいんでしょうか。
 次に「本当に僕は生きていていいんですか?」。これは僕の小学校の教え子で、民族学級でリーダー的存在だったのですが、中学生の時に「先生、実は帰化したいんです」と相談に来たのです。事情を聞いてみると、彼は非常に優秀な子でしたが、家庭が経済的に厳しくて、お父さん、お母さんが朝から晩まで必死に働いていました。それで「日本国籍を取って、いい会社に入って、親を楽にさせてやりたい」と言うわけです。その時、私は「帰化するのは別に悪いことでも何でもない。ただ、帰化しても自分のルーツを大事にして、お父さん、お母さんの幸せのために頑張って働いて生きるという気持ちを最後まで持ってや」という話をしました。そして、その子は高校生になる頃に帰化したのですが、非常に肩に力が入っている訳です。15、6歳だったらいろいろ遊びたいし、いろんな夢があるわけですが、その中で「韓国人やから頑張らなあかん」、「一日も早くお父さん、お母さんを楽にさせたい」といったことが足かせになってくるわけです。それが知らず知らずのうちに彼の心を蝕んでいって、彼は精神的に重い病を患ってしまったのです。その中で私もいろいろ話をしたり、遊びに連れて行ったりしたのですが、彼はその時「先生、本当に僕みたいな韓国人は生きていていいんですか?」と言いました。私は「そんなことはない。お前はお前のままでええねん」と答えました。今から考えたら、もっと愛情深く、優しく彼を受けとめることができたのではないかと後悔することもあるのですが、その時は「頑張れ」くらいしか言えませんでした。彼の苦しみや葛藤は大きな負担となり、混乱の中で彼は自ら短い人生を閉じてしまったのです。お通夜の時、彼のお父さんから「先生、この子にとって一番輝いていたのは小学校の時でした。民族学級で楽しんでいた話が忘れられません。本当にありがとうございました」と頭を下げられ、私はもう何と言ったらいいのかわかりませんでした。私の仲間や知り合いには、このような似たケースがたくさんあります。どうして、私たちはこんな思いをしてまで生きていかなければならないのだろうかと、何ともやりきれない気持ちにさらされることがあります。
 もう一つは「自分さえしっかりして実力があれば差別なんて関係ないよ」。私の教え子の中にも、実力があって、いわゆる名門と言われる大学に入った子がいました。そこでもわりと活躍して、「先生、今はもう21世紀ですよ。自分さえしっかりしていれば、差別なんて関係ないですよ」と言うのです。ところが、その子が大学4年生の頃、お母さんから「先生大変です。うちに来てください」という電話がありました。行ってみると、その子が半年間引きこもっているのです。事情を聞いてみると、彼は就職活動の際、大企業を受けて、最後の社長面接までいって通った。そして、人事担当の管理職の人から「好きな部署に行っていいよ」と言われたのですが、その時に「僕、韓国籍ですけど、実力本位で頑張ったら出世もちゃんと保障して頂けますよね?」と聞いたのです。すると、その管理職の顔色が変わったそうです。数秒経った後「いや、うちは差別しないから大丈夫」。ところが、そこから何か月経っても採用通知が来ない。電話してもつながらない。仕方なく直談判しに行くと、その管理職の人は「採用するかしないかはうちが決めること。君にあれこれ言われる筋合いはない」と言ったそうです。彼はショックを受けて「ああ、自分の親と一緒なんや。実力さえあれば差別なんて関係ないと思っていたのに」と思い、そこからだんだん落ち込んでいったのですが、誰にも「助けて」とか「しんどい」とか言えない。私は当時、教育相談員の職務についていたので、保護者と本人の依頼を受けて、問題解決に取り組みました。私は、直接その企業に行く前に、まず大学の理事の方、就職担当の方と話し合いを持ちました。教え子は「サークルの先輩が何人もその企業に入っているし、大ごとにしたくない」と言いました。でも、その大学の理事は「あなたが言いたくないなら尊重するけど、私たちは人を大事にしないその企業には人を送りたくないんや。だからその企業名出してくれ。もうその企業には絶対人を送らない」とはっきり言われたのです。その時、彼は私たちの前で涙を流して「就職差別があってから、世の中とか周りの友だちを恨むようになって、どんどん自分が荒んでいったけど、本当に心から私と向き合ってくれる人がいるのですね」と言いました。その姿を見た時、「まともに向き合うというのは、本当に人を変えていく力になるんだな」と強く感じさせられました。

●ちがいを豊かさに共に生きる関係をめざして

 ある小学校の民族学級、学校在籍の4割以上が韓国・朝鮮にルーツがある子どもたちなのですが、1991年から2000年までの10年間、民族学級の卒業生194名が毎年「将来どうやって生きていきますか」という、未来への希望を託した作文を残しています。それを分析してみたところ、3つのパターンが出てきました。まず@として、「将来は堂々と韓国・朝鮮人として生きたい」あるいは「民族名を名乗りたい」という意見。次にAが「日本で生まれ育ったのだから、(日本名など)このままでいい」という意見。そしてBが「将来が不安、差別が怖い」という意見なのです。驚くべきことに、この10年間変わらず、Bの意見が一番多いのです。@Aは少数で、半数近くがBの意見で占められていました。この10年間で、子どもたちの置かれている環境はすごく変わっています。確かに91〜93年くらいまでは民族差別的なトラブルがありました。ところが96、97年くらいからは、学校の中で民族学級という存在は、すごく格好よくて、発表会でも上手にやっていて、みんなからの憧れの的でした。そういう中で子どもたちが強く自信を持ち、活き活きしていたのですが、自分の将来の進路のイメージを出してと言うと、「将来が不安」という現実社会の反映のような答えになってしまう。こうしたことを考えた時、私は今のニューカマーの子どもの課題も一緒だと思うのです。今、ニューカマーとオールドカマー、つまり新規渡日の外国人と旧植民地出身者の子孫を分けて見る傾向があるのですが、私は問題の中身などは一緒だと思っています。ニューカマーの方も、定住すればするほど間違いなく「いつか来た道」、つまり私の親や私自身が辿って来た歩みを間違いなく経験するだろうと思います。事実、仕事や永住目的で来られているアジアや南米の人たちが、差別・偏見それらを追体験しているわけです。そういうことを考えると、本当に自分が安心して将来展望を描けるような教育保障や総合的な人権保障が必要だと感じます。逆に、日本人の子どもだったら安定しているか、個性が尊重されるているかというと、そんなことはないわけです。彼らも厳しい子ども社会の中で生き残るために、時には自分を偽ったり、友だちを踏みにじったりすることもあります。そう考えると、「ちがいを豊かさに」というのは、外国人とか、明らかに個性や文化・志向性の違う人とどう共存するのかという意味合いだけではないのです。多民族共生とか多文化共生というのが意味するところは、一番シンプルな言葉で言えば「多様性」ということです。「ちがっている」人たちとどう出会って、つながり、異なるニーズにどのように答えていくか。それが社会を豊かにしていくことにつながるわけです。

●多民族・多文化共生社会の実現に向けて

梁 釀一(ヤン・ヤンイル)さん 企業関係者の皆さんであればご存知かもしれませんが、経団連が外国人受け入れに関する提言を出しています。その中で「内閣府に多文化共生庁を作りなさい」と言っています。これはこれで面白いなと思います。また、毎年「外国人集住都市会議」というのも開かれていて、多文化共生のためのまちづくりというのは重点課題となってきています。事実として、多くの外国人を社会の構成メンバーとして受け入れないと社会的に維持することが難しいという時代に来ていると言えます。あとはその共生社会創造のためのルールやシステムを作ればいいだけの話なのです。その中で、それがどれだけ日本社会を良くするものなのか、全体にとってどんなメリットがあるのか、つまり、特定の集団が利益を得るための取り組みではなく、全体の公益が潤うために、共生社会が必要だと言うことです。私が所属する表現・コミュニケーション学科では、多様な不登校生層の生徒を受け入れていますが、生徒のほとんどはいじめや、画一主義の学校から排除されてきた傷つき体験を有しています。学力差も千差万別ですが、本校ではその人の個性に応じた習熟度別クラスや個別メニューを設けて、その人たちの自信がつくためのステップを用意しています。それと同時に、試行錯誤ではありますが、生徒同士が協働作業を通じて、お互いを高め合い、ちがいを認めて共に生きる力を育んでいます。
差別という問題を突き詰めていくと、能力主義の問題に行き着きます。「『差別はいけない』というのはわかる。でも男の人と女の人を比べたら、男の人の方がよく働く」、あるいは「健常者と障がい者とを比べたら、健常者の方が生産性あるでしょう」という意見です。でも、本来はその人の属性にかかわらず、その人の可能性を引き出すことの保障やシステム作りが大切なのではないでしょうか。できれば緩やかな、その年齢、経験、個性等に応じた、新しい共生のためのルール、共通の基準を作る必要があるのではないでしょうか。私たちの学校でやろうとしていることは、能力主義への挑戦でもあります。「ちがいを認められない」中で育ち、傷つけられた人たちのエンパメントを実現させることは、この社会を良くしていくことにつながっていくのだと思っています。そういう意味では、ちがいを豊かさにする、在日外国人とどう共生するか、あるいは多様な生き方、個性とどう共存するかというのは、多くの人々の生き方、幸せの保障、そして多様な生き方を認める共生社会の創造と密接に繋がっていると、私は今までの生き様や教育活動の経験から思うのです。

 

 

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