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2006年度 多民族共生人権リーダー育成合宿研修会
| みなさんこんにちは。河炳俊(ハ・ビョンジュン)と申します。
私は戦後間もない1948年に滋賀県大津市に生まれました。
現在58歳になりますので、まさに団塊の世代の一員です。
50 歳になった頃から、企業活動だけでなく、社会に関わり
自分のライフワークを見つけたいという思いで今日まで8年間過ごしてきました。
その一環として2000年に近江渡来人倶楽部を設立しました。
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テーマ:多民族共生への展望
【試金石としての在日コリアン(特別永住者)問題】
講師:河 炳俊(ハ・ビョンジュン)さん
(近江渡来人倶楽部 代表)
多民族共生人権教育センター
第7回総会 記念講演 |
在日コリアンと日本社会の関係
日本は江戸から明治にかけて世界の列強から開国を迫られ、その反動として大東亜共栄圏構想が発生したというのは容易に考えることができます。植民地、帝国主義がはびこりそれに準じた日本という国家が大きくなって
東アジアを席巻していくというプロセスがあります。その事実がどのように今日の在日コリアンの存在とつながったのか、
朝鮮半島との関係を現在の形で残すことになったのかを考えてみたいと思います。
政治的意図があったのかは分かりませんが、 現在の日本の学校では日本史の中でも近代史になると高校入試の準備のために、
さらっと流すだけという学習の仕方だとよく言われます。滋賀県教育委員会の先生も、それは事実であるとおっしゃっていました。戦後の日本は、日本の近代について教えてこなかったのです。そのため、当然、在日コリアンの存在についても教えてこなかったのです。その上偏見や差別がまかり通るような時代を経過してきました。
しかし、戦後50年を経過した辺りから、状況は変わってきていると感じています。その要因として、戦前に大きな力を持っていた方、教育を受けられた方が亡くなっているということがあると思います。もう1つは、近年、韓国が世界の中でだんだんと先進国に近づくような積極的な国になり、信頼されるような国になってきたため、在日コリアンに対する見方も変わってきたということがあると思います。韓国料理の店舗もフランチャイズでどんどん日本に増えようとしています。韓国の食文化が日本に定着しつつあるという現実を踏まえると、昔のような、にんにく臭い、あるいは「朝鮮人は○○だ」というような負のイメージと結びつくことは少ないのではないかと感じています。在日コリアンの方たちに対しても、自分たちのルーツを表現できない、日本人の顔をして生きていかなければならない状況ではないということを訴えています。差別されなければならない理由はないのですから、堂々とコリア系であるという自分の出自や姓名を隠すことなく生活していただきたいと思います。あわせて、外国人に対する排外・排斥意識のない社会を構築するため、共に働きかけていくことが重要だと考えています。
日本社会の国際感覚と人権意識
今、日本の企業活動も中国の追い上げなどがあり大変な時期だと言われます。しかし、経済的にはGDP世界第2位という大きな地位を占めたことが当然のように語られるほど、経済大国であることは確かです。どうしてこのような日本の企業集団が出来上がったのかを考えてみたいと思います。
1945年、日本はGHQに統治され、1952年のサンフランシスコ講和条約までの間、身動きがとれませんでした。しかしながらその後、自分たちが平和憲法を制定し、講和条約の下に賠償請求もされずに、日米安全保障条約という傘の下に入ることによって防衛費もほとんど拠出することなく、しかも1950年から始まった朝鮮戦争の特需で経済が持ち直したという経緯はご承知のことと思います。戦後の日本経済の発展には、この3つの要因が挙げられると思います。その結果日本はアメリカに次ぐ経済大国になりました。
さらに、いたるところで国際社会のリーダーとしてがんばります、国連の常任理事国にもなりたいと言います。でも、なぜかなれません。また、国内においても経済的には豊かになったのに、心は豊かではないという人が多くなってきました。やはり、金はたくさん稼いできたけれども過去の歴史の清算、意識の清算がなされていないところに大きな問題があるのではないかと思います。そういった日本のリーダーの姿勢によって、世界のいろんな国の人たちが、どこか日本は信用できないという意識を持ち続けているだと思います。ドイツのワイゼッカー元大統領は、ドイツの敗戦40年を記念した連邦議会の演説の中で「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも目を閉ざすことになります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」といいました。この言葉は未だに活きた言葉だと思います。こういったことが問題点の1つではないかと考えています。
これからの日本は、少子高齢化とともに総人口の減少が深刻な問題となっています。そうなると、物事の是非とは別に、ある一定の経済規模を保つためにはどうしても労働力が必要となります。その反面、ニートと呼ばれる人が非常に増えています。またニートではなくても、3Kと呼ばれる仕事には就きたくないという人がほとんどです。コンビニのお弁当の製造工場など、24時間稼動している工場などに従事されている方を見てみると、日系人の方が非常に多いことが分かります。今後は、外国人の就労場所として例に挙げたような業種がますます拡大していくと考えられます。このような状況があるわけですから、外国人であろうと、日本社会の一員として活動している人たちに当たり前のケアをしていくことが重要です。外国の方たちを自分たちと同じように温かく受け入れてこそ、初めてその方たちも地域社会の一員であるという認識を持ち、地域や企業、社会に貢献していこうという気持ちが生まれるのだと思います。
企業の社会的責任
2006年7月、積水ハウス(大阪市北区)に勤務する在日コリアン2世の男性が
「差別発言で傷つけられた」として、大阪府内の顧客に300万円の慰謝料と謝罪広告の掲載を求め
大阪地裁に提訴しました。そして、その報告を受けた積水ハウスは企業の社会的責任として、
裁判費用の負担や裁判への出席も勤務時間とみなすという支援策を発表しています。会社のために貢献していくのだという社員がいるのならば、企業としてはサポートをしていくのは
当然のことだと考えます。当然これは、外国人の問題だけではなく、 さまざまなハンディを持ってらっしゃる方に対しても同様のことです。しかし、今回の積水ハウスの事件が新聞記事になるということは、
この事件が特別なことであり、ようやくこのようなスタンスの会社が出てきたということだろうと思います。
企業の人権担当者というのは、社長の代理人として人権を学び、リーダーとして存在しているのだと考えています。やはり、会社組織としての立場がどうあるべきかを認識し、高い人権意識を広めていただきたいと思います。また、個人としても高い人権意識が本当に必要であるということを体感できるようにならないと、
具体的な行動にはつながらないと思います。リーダーである企業の人権担当の方々が、
組織のために何ができるのかを考えると同時に、リーダーである自分個人として社会に対して
何ができるかという思考と行動をリンクしていただきたいと思います。人権の担当者であり、リーダーになられた方が身をもって差別をなくすために尽力されれば、
企業全体も変わっていくと思います。社会から批判されない会社作りではなく、
社会から表彰されるような企業になっていただきたいと思います。
行政施策への提言
行政は、バブル経済で労働力が不足したことから、1989年以降、外国人にも門戸を広げようとしました。その際、血統主義で「日系人なら日本人に近い」という非常に安易な発想のもとに日系人の在留を優先的に許可するという方法をとりました。ラテン系の方はもちろん、戦争で南方へ行きそのまま現地に居ついた方の子孫も
日系人として扱われることとなりました。また、中国からの留学生や研修生、実習生というシステムで
なし崩し的に労働力を拡大していきました。しかし、その人たちに対するケアがなされているのだろうか
ということを考えると非常に寂しい気持ちになりました。
質疑応答より
A.河さんが日本名から民族名に変えられたきっかけを詳しく教えてください。
Q.日本で生まれ育った私が、正式に河炳俊という名前を使い始めたのは50歳からです。本当は40歳から50歳までの10年間を民族系の組織に属していたわけですから、
40歳でカミングアウトするのが当然だと私自身も思っていました。ところが、不思議なもので大韓民国民団という組織にいながら、
組織で何かをしているときには本名を使っているのに、家や会社に戻ると どうしても日本名を使ってしまっていました。これは、商売上の損得が関係したせいかもしれませんが、
どうしても名前を使い分けるという意識が抜けませんでした。そして、完全にその意識からぬけ出せたのが50歳でした。私は25歳から小さな不動産業の会社を作りました。それから40歳までの間は、ほとんど本名を使いませんでした。36歳のときに社団法人大津青年会議所の理事長をすることになりました。そのとき、せっかく公職に就くので本名を使おうかと考えましたが、青年会議所の中から
韓国人であることをPRさせるために理事長にしたわけではないという人まで出てきて、
なかなか本名にしづらい状況がありました。そこで、仕方がないので名刺に日本名の後に括弧を付けて本名を書きました。名刺は日本中に配りましたが、大きな声で韓国人ですと言うことはできませんでした。それは、自分に対して卑下する気持ちがあったり、経済的利益と損得を考えたとき、
当時の私は弱かったのだと思います。取引ができなくなったら困るというような考え方があったのではないかと思います。50歳になって初めてそれが吹っ切れました。
私はこれまでの生活の中で、40歳まで日本社会の一員として日本社会を見つめ、
40歳からの10年間は民団という組織に入って在日コリアンとして日本社会を見つめたことになります。そこで、これから外国人が増えてくるであろう日本社会を展望して、日本社会に永住する自分たちが心豊かに生活するため、
幸せに生活するために、経済的な損得だけではダメだと考えました。そこで初めて、カミングアウトできたのだと思います。そのとき、松下幸之助さんがおっしゃった「命知」という言葉のように、自分の使命を知るということはこういうことなのかと感じました。それ以来、近江渡来人倶楽部の設立・運営においては「人権」を標榜し、多民族・多文化が共生できるような社会を作っていくために
少しでも役に立てればと願いながら活動をしています。
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