|

『日本の多文化共生の伝道師でありたい』
スリランカでは今でも象が、重い荷物の運搬の仕事に使われていることが多い。今では、すっかり少なくなったものの、僕は幼稚園に牛車で通っていた。英国植民地時代に作られた細い道路には車はさほどなかったこともあって、牛車はどこでも見かけられた。道路には牛の糞などがたくさん落ちていたものだ。そのスリランカに80年代から一気に車が入ってきた。それはほぼ100パーセント、セカンドハンド(中古)の車で、送ってくるのは日本からだった。
世界的にヒットを飛ばしている、「おしん」は、スリランカでも人気のある番組だった。地元では、割と早くからテレビを買った実家には地域の人が何十人と集って集まってきて、このドラマを見ていた。日本のイメージは丁髷までは行かなかったものの、おしんのイメージそのものだった。おしんには、当然ながら車なんか映っていない。その国から、何で車を送ってくるか不思議だった。いつしか、狭い道が日本の中古車で覆われて、牛車が町から姿を消した。
戦後の時点ではスリランカは、道路の舗装率や、車の所有台数が日本より多かった。日本からなぜこんなにたくさんの車が流れてくるかが不思議だった。日本に来て、大金持ちになったサクセス・ストーリーをちらほら耳にするようにもなった。コロンボ大学の学長は言う、「昔は日本からの奨学金が出ていても、誰も希望者はいなかった」と。その国に、僕の周りの人たちが競って行こうとする現象が起きた。
僕もその中の一人だった。日本にどうしても行ってみたいという僕の強い思いは止まるところを知らなかった。どうしても行ってみたい。親が家を担保にして工面した7万円と片道切符を手に日本に来た。今から考えるとそれは僕の第二の人生の第一歩でもあった。しかしその後、この国には「心」がない入国管理局という厳しい機関があることを知った。その法律に従えば従うほど、この法は僕たち外国人のことを思いやってはくれず、管理する法律でしかないことが解ってきた。パラダイスの日本を目指してスリランカから来た友人は、来る前にした借金の返済を、拘束された学生生活をしながらでは出来ないことを実感しだしていた。だからといって仕事をするビザはおりない。やむを得ずビザをもたずに、3K仕事に走った友人たちを僕は横目で見ていた。
僕は、いくら管理されていることを解っていても、枠組みから飛び出す勇気がないことを実感しつつ、その後も引き続き制度の管理のもとで窮屈に過ごしてきた。大学を卒業して就職したかったものの、「国際」の名のつく機関はほぼ全てにおいて、国籍条項を設けていること等、就職差別を経験した。日本の国際化がマジョリティー本位であることを実感した瞬間だった。日本にいたい。やむを得ず、手っ取り早く日本に残れる方法として大学院の博士課程まで進んだ。途中、自由を保障するはずの大学までもがまるで入管の下請けをし、留学生の資格外活動を「管理」したりするようになったことが悲しかった。
日本語学校のかつての同級生が入管法違反や不法就労助長罪で捕まったときに、通訳として立ちあうのは心苦しかった。日本の制度が外国人を救ってくれない、自力で自分を守るしかないと、そんな制度を無視し働いて成功している彼らに敬意をはらっていた。制度にバカバカしく従いながら学生生活を続けているため一銭の金も親に送れていない僕とちがって、働いた金で親孝行する友人たちはスリランカではヒーローになっていた。僕はそんな彼らが羨ましかった。家庭を持ち、子供を育てながら幸せにしている彼らに会う度、僕は自分のただただ制度に従うだけの、選択肢が正しかったのかを悩んだ。でも警察官に自分は「先生」と呼ばれ、捕まった友人は「お前」と呼ばれていることが、変な感じがした。
矛盾を心に秘めながらも、僕には意地でも制度の雁字搦めになりながらの窮屈な生活を送るしか選択肢がなかった。意地だった。日本に夢を抱き続けても、前が見えない15年間が長く感じた。親孝行をしない息子への家族からの連絡は完全に途絶えた。弱音を吐いたり、現実逃避をしたくて飲み潰れる日々、ときには自殺すら考えた。言うまでもなく、その間、入居差別などのあらゆる差別を経験した。
近々博士号を授与される。でもそれは、消去法の結果でしかなかったことは自分には嘘をつけない。今年の春から僕は、日本の大学の教員に、そして「地方公務員」になった。紛れもなく、たくさんの偶然が重なったことに過ぎない。それでも入国管理法は僕に優しくはしてくれない。やっとこの社会の一員になった矢先であった。大学の公務でビザの更新が一日遅れたため、その罰として、3年貰えるはずの「教授」ビザが1年間に短縮された。これからも、日本の「制度(法律)の壁」、「心の壁」に接しながらもこの日本という空間で生きて行く決心をしている。そのなかで、ライフワークとして、自他共に認める多文化共生社会を構築していくために若干克服できた言葉を駆使してたくさんの人々にその必要性を伝えて行きたい。
多民族共生人権教育センター 理事 にしゃんた
2002年4月より、山口県立大学教員(国際経済論)となった。近著に『留学生が愛した国・日本〜スリランカ留学生の日本の体験記〜』(現代書館)がある。
|