多民族共生人権教育センター
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「ニューカマー」「在日」「日本人」の垣根を越えて

 多文化共生センターの大阪事務所が引っ越した。大阪市内、東成区から港区へ。東成区には約5年間、お世話になったが、在日コリアンが多く暮らす東成区での5年間は、私たちの活動に深みをもたらしてくれるものだった。今後もこの関係は大切にしたいと思っている。

 阪神大震災で被災した外国人への多言語による情報提供をきっかけにスタートした私たちの活動は、日本語を第一言語としない人々へのサポートが中心であったので、「ニューカマー」を対象とした活動がほとんどであった。それから7年以上の月日が経つ中で、この「ニューカマー」の生活も滞在の長期化、定住化、永住化の傾向が顕著となり、子どもの教育やアイデンティティの確立、さらには就職や結婚などで立ちふさがる「日本人でない」ことの困難に直面している。例えばいま、全国に50を越えるブラジル人学校が設立されているが、いずれも一条校はおろか、まだ「私塾」の扱いである。また、高齢者施設からの通訳派遣依頼も見受けられるようになったし、あと数年すれば、中国やブラジルから来日した人々の無年金問題も発生するだろう。

 5年前、東成区に引っ越してきた私たちを、地元で活動してこられた在日コリアンの活動団体のみなさんが関心を持って訪ねてきてくださった。一緒にフィールドワークを展開したり、ワークショップを持つことも増えた。この経験を通じて、私たちは、ニューカマーが直面している課題の多くは時間差こそあっても本質的には共通しており、地域社会の変革なしには根本的な解決には至らないのだということに、改めて気づかされた。また、在日コリアンの歴史を学ぶことがニューカマーの今後の定住化に多いに役立つことも確信した。2001年の1年間に一般永住者は4万人増えている。一時的な滞在者から今後も永住する住民へ、ニューカマーの生活も変化していく中、在日コリアンの経験が共有されることで困難を最小限にとどめることができる。

 しかし、実際の現場ではまだまだ、両者に壁を感じることもある。例えばかつて私はあるパキスタン人から賃金未払いの相談を受けて、会社の社長へ電話したことがある。電話口に出たキム社長は「もう外国人は雇わない」といった。私はキム社長の声色を、いまでも覚えている。また、ある自治体の懇話会で、日本語指導が充分でなく通訳も付かない状況下で不就学になるニューカマーの子どもたちが増えており、対策を求めたいと訴えたときの「違和感」も忘れられない。外国人の教育全体を扱うはずのその日の会議は、卒業証書の年号を西暦に変更することに懸命だった在日コリアンの委員にほとんどの時間を占領されてしまった。批判を承知で申し上げれば、そこには外国人の中でもマジョリティとなってしまい、新しくやってきたマイノリティの苦労がみえない在日コリアンの姿があると思う。また、ニューカマーにも、日本語を話し、風貌も日本人と区別がつかない在日コリアンを自分たちと同じ困難を抱える人々とは認めず、一線を引きたいという心理が見えることもある。植民地支配の歴史や戦後処理の無策という点は異なっても、「異質の排除」や「政策の不在」という点においては、在日コリアンとニューカマーが直面する課題の原因は同じだ。両者をつなぐ役割の一端を、多文化共生センターは担いたいと思っている。

 さらに、地域社会の変革が必要であるという本質的な問題で語れば、日本人を含めその地域に暮らすすべての人が当事者である。多文化共生センターには多くの日本人のボランティアが参加しているし、職員も日本人がほとんどだ。このことをさして、日本人のための日本人の活動だと揶揄されることもある。しかし共生を考える人々の間に新たな分断を持ち込むことに、私は何の意味も感じない。

 1990年代のシリコンバレーに象徴されるように、様々な背景を持つ人々が同じ課題に取り組むことの有効性を最近実感することが多いが、共生を求める日本の市民運動も同様に、これからは活動分野を越えて協働していきたい。例えばニューカマーの子どもたちの学習指導に在日コリアンの若者がボランティアで参加することは、両者にとって深い意味を持つ。またそこに日本人のボランティアも居合わせることで、それぞれがさまざまなことを発見できると思う。それぞれができる限りのことに取り組み、互いに協力し、解決策をみつけていく。このシンプルなことの積み重ねが、共生社会を実現していくのだろう。

多文化共生センター代表  田村 太郎

 

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