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本名を名乗った動機 〜故・伊奈教勝さんの場合〜 1992年の10月、わたしは京都の友人宅で伊奈教勝さんと話し合ったことがある。もっぱら聞き手として・・・。ひとしお感銘深く聞いたのは「本名に帰った」という話だった。 伊奈さんは岡山県の国立ハンセン病療養所の元患者として暮らしておられた。1922年に愛知県のお寺の二男として生まれ、京都の大谷大学に在学中、学徒動員令で軍隊に招集された。 伊奈さんは敗戦で復員したのちの1947年、ハンセン病と診断される。直ちに岡山県の瀬戸内に浮かぶ島の療養所・長島愛生園に入所する運びになる。 入園前「藤井善」という姓名に変えた。実家の意思も含んでのことだ。のち1959年に全治したという診断が出たが出所はできない。法自体に退所規定がない。園内では僧職としての勤めと併せて架橋運動に力を入れた。 同じ島にある『長島愛生園』と『邑久光明園』という二つの園から立ち上がった架橋運動は粘り強く行われた。対岸の邑久町との間を結ぶ『邑久長島大橋』は請願書を出して16年後の1988年5月に開通した。 その橋を渡って、かねて伊奈さんと交流のあった僧職の玉光順正さんが、連れと一緒に来られた。そして「この橋は『人間回復の橋だ』と言われていますが、これは、あなたたちを閉じ込めていた私たちの人間回復でもあるのです」と言われた。 また、一緒に来られた在日朝鮮人女性のユ・ヨンジャさんは、こう言われたという。「私は、日本名がございます。日本名で生活しておれば、それでいいわけです。しかし私は本名を名乗っています。いろいろ辛いこともありました。名乗らなければよかったということもあったかも知れません。しかし、今は、本名を名乗ったことによって自らの尊さと、誇りを感じております」と。 これらの言葉に伊奈さんは打たれた、という。40年近い間に多くの見舞いの人たちが来てくださった。いろいろな差し障りを超えてのことだったと思う。私たちは喜びと感謝の念を持っていた。 しかし「あなたたちの人間が回復されない以上、私たちも回復されない」ということをおっしゃった方はなかった。むしろ「ここで静かに人生を終わってください」という方向のお見舞いだった。 そう考えて分かったことは「私どもさえが人間回復をしたら、それでいいんじゃなかった。私が人間回復をするということは、家族が、地域が、日本が人間回復をするということじゃないか」と、その時、初めて私は知らされた−と伊奈さんは語っている。 これらの言葉に接して、伊奈さんは本名に戻ることを決意する。真実を訴えてゆくのに自分が覆面をすることは許されない。恐らく家族親族らが困るだろうが、真実を言わなければ誰もが人間を回復することにならない。そう思ったという。 こうして、各地で話すとき、文章を書くとき、すべて本名を出す。のちに反応が出てくる。まず僧職と大学教員をしている甥が気づいた。甥は結婚した時、妻には伝えていなかった。ところが打ち明けると、逆にそれまでの消極性を批判され、会いに行こうと励まされた。 やがて伊奈さんは実家のお寺での法事にも招かれ、園内結婚していた妻とともに先祖の墓参りもした。1994年には『ハンセン病・隔絶四十年、人間解放へのメッセージ』を明石書店から出版。そして1995年12月26日、肺炎のため園で死去された。73歳だった。 私は伊奈さんのことを思い出すとき、ユン・ヨンジャさんの「本名を名乗る」という語りに感銘を覚える。伊奈さんも素直に本名を名乗る意味を読みとられたのだと思う。それが以後の行動の数々にも表れている。 ◇ 1997年、東海大学出版会が『ハンセン病医学〜基礎と臨床』を出版した。専門医学者23人が基礎・臨床・社会の各医学編に執筆している。私が注目したのは「医療人類学的視点からのハンセン病」と題された項目だ。 その中に『差別・偏見を生みやすい国民性(民族性)』と題された一項がある。それには(1)完全主義(潔癖性)(2)死(重篤な疾患)への恐怖(3)異質なものを排除するナショナリズム。そして「国策としての民族浄化運動」も指摘されている。的確な視点だと見る。 大学非常勤講師 吉田 賢作 |