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マイノリティ視点からの新たな「共同体」づくり
友人がこんな話をしていた。「わたしの出会ったイラン女性が、子どもの教育のためには、日本で暮らすのではなくイランに帰りたい、と言っていた。イランの自分の生きてきた共同体の中で、人間が人間として生きていくための教育を求めていくんだ、と」。
反差別国際運動がとりくんでいるグアテマラの先住民族プロジェクトで出会った23歳のマヤの女性は、「出稼ぎに出なくても家族が一緒に生きていける方法を、そして、さまざまな問題を解決しながら共同体が共同体として生きていく道を模索している」ことを熱く語っていた。マヤがマヤとして生きていくために、共同体での男女の役割、教育のあり方について、若者たちが、女性たちが、伝統的なものを見直し、そして引き継ぎながらも、共同体の内側から変革していこうとしている。
インドの先住民族のある共同体では、「教育」を受けた若者たちが共同体から出ていき、社会の「低賃金のしずめ石」として社会構造に組み込まれていく、という。共同体にとっての「教育」とは。先住民族が先住民族として生きていくための「教育」とは。共同体での模索が続いている。
同じ現象は被差別部落でもみられる。教育を受け、経済的にも力をつけた若者たちが「ムラ」から出ていく。一方、いったん、「ムラ」から出ていくが、また「ムラ」に戻ってくる者たちもいる。ある者は、社会の荒波に耐えられずに「ムラ」の「ぬくもり」を求めて。ある者は、地域が力をつけていくために自分も何かをしたくて。
マイノリティ(被差別少数者)が個の人権を侵害されているとき、個人の人権を守るために共同体というのは集団の力を発揮してきた。それは、先住民族しかり。部落もまたしかり。社会的な差別や抑圧、同化や排除があるという状況において、排除されている者同士が、共同体のつながりの中で、お互いに助け合ってきた。そのことによって生活を組み立てたり、あるいは、お互いに被差別の立場にあるという共通の感情の中で、不当な排除や差別を跳ね返していく、という精神的な連帯としての共同体があった。
しかし、西洋の、そして日本の女性活動家の多くは、家族や共同体というものは女性の個としてのアイデンティティを無視し抑圧するものだとして、家父長制的な家族や共同体、ジェンダーに縛られた共同体の価値観、伝統や文化から解放されて、自立した個人として生きていくことの大切さを訴えてきた。近代市民社会は、個人の人権の尊重や自己決定権を重視すること、個人主義原理に支えられた現代家族や市民社会を発展させることを重要だとしてきた。そのために教育が大切であり、経済的・政治的・社会的・精神的自立・自律が大切なのだ、と。
確かに、マイノリティの共同体にあっては、たとえば、部落差別や社会との関係の中で、実は、共同体の持つ意味やそれが及ぼす影響、などへの考えや分析があまり行われてこなかった、またはパターン化されていた面があった。差別に抗していくため、生きていくため、アイデンティティを維持していくための連帯が、実は、地縁・血縁の関係の中で、「べたっ」とした共依存の関係となり、そこで家族や共同体のぬくもりを感じている面が多々あったのではないだろうか。マイノリティの共同体の中で、連帯を築いていくために、あるいは共同体を維持・強化するために、同化と排除の共同体を作り、どこかに家父長制的な家の論理に根っこを持つような家族観・共同体の価値観に引きずられている面があったのではないだろうか。これが個人の自立・自律を妨げていたのではないだろうか。あるいは、個人として自立・自律しようとしないことの逃げ道に共同体を引き合いにしていた面があったのではないだろうか。共同体から排除されることを恐れて、「個人」を沈黙しつづける面があったのではないだろうか。
反差別国際運動日本委員会が実施した「マイノリティ女性に対する複合差別研究会」において、マイノリティ女性にとっての家族や共同体についても論議がされた。在日朝鮮人女性の朴和美は、「日本社会の差別構造ゆえに、おおいかぶさる厳しい差別から身を守るための互助組織・互助機能として家族や共同体があり、その共同体や家族が女性に抑圧的に働いてきた。在日を家族に追いやってしまう日本社会の差別構造の中にあって、在日は家族を神聖化、ロマン化、絶対化しやすい環境にあり、本来なすべき家族の相対化・民主化の作業を困難にし、性差別的な男系家族を美化してしまう。日本社会の同化に対抗するために、朝鮮文化・伝統・慣習を無批判に踏襲せざるをえない状況があり、批判する余裕をもてなかった。在日の性差別を批判するときには、在日に性差別的な朝鮮文化を無批判に継承させてしまうような力学が日本社会の中にあることを意識する必要がある」と語っていた。研究会は、次のように報告している。「このことはアイヌ民族・被差別部落・沖縄・在日コリアンの女性たちに共通して言える。マイノリティの中での性差別と、社会からの差別という二重の差別構造の背景には、日本社会の中に根強く存在する家父長主義・排外主義・同化主義があり、そのことが弊害となってマイノリティ女性をより強く縛っている。マイノリティ女性がその受ける差別を内面化し、女性としてのアイデンティティを認識しにくい、また主張しにくいといった複雑な状況がある」。
では、共同体に潜んできた複合差別の問題を解決し、マイノリティ女性たちが個人としての人権を尊重していくためには、共同体を悪だとして破壊していくことしか道はないのだろうか。個人が個人として自立・自律し、その個人と個人がつながっていけば、共同体や家族から解放されたマイノリティ女性たちが、社会の中においても、差別から解放されていくのだろうか。
差別に対して共同体を連帯させる家父長的規範ではなく、マイノリティにとっての共同体とは何なのか、マイノリティたちが、マイノリティ女性たちがどうやって共同体の中で生きてきて、これからもどうやって生きていこうとしているのか、どういった共同体を求めていくべきなのか。「人間」そして「人権」という視点から、一人ひとりの個の人権を大切にし、自助共助という考えのもとで、自立・自律した個人とそうした個人による家族や共同体の結び合い方を両立させるような透徹した整理をしながら、家の論理に基づくマイノリティの家族観や共同体の価値観を超克し、新たな共同体・家族の創出が求められているように思う。こうした作業は、男女共同参画の取り組みに対するバックラッシュの主要な論拠としての家制度や性別役割分業にもとづく「伝統的な美風」を打ち破っていくためにも不可避であると思う。
近畿大学教員 熊本 理抄
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