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オピニオン 歴史に対する感覚・感性が問われている −麻生発言に思う

歴史に対する感覚・感性が問われている −麻生発言に思う

 「麻生発言」に関連して何か書くようにとの注文を受けた。麻生太郎氏の母は吉田茂の娘ということもあって、『祖父 吉田茂の流儀』との著書もある。小泉純一郎首相(1942年生)と同世代の若手のホープ(といっても1940年生で還暦はすぎた)と目されており、現在自民党三役の一角を占める政調会長の職にある。
 「歴史」とどう向きあうか、とりわけアジアとの関係で考えるとき、それは政治家にとっても市民にとっても、古くて新しい問題のように思う。私が、それを痛切に感じたのは40年も前のことである。よく書いたり、話してきた、例の「千円札」のことである。

 東南アジアからの留学生から、次のように言われた。「田中さん、日本では歴史というものをどう見ているんですか。今度、千円札に登場した伊藤博文は、朝鮮民族の怒りをかって、ハルピン駅頭で射殺されたんでしょう。それを、この期に及んでわざわざ持ち出すなんて・・・」、「もっと無気味に思うことは、そのことを日本人の誰ひとり指摘しないことです、文化人から投書欄に登場する庶民に至るまで。・・・・・それに、同じお札を使う在日朝鮮人の気持ちを少しは考えてみたら・・・」と。
 千円札が聖徳太子から伊藤博文に変わったのは1963年11月のことである。伊藤博文についての「知識」ということなら、彼らより私の方が多くを持っているだろう。しかし、千円札を手にしても何も感じない自分と、“無気味さ”を直感する彼らとの間で、何が違うのだろうか、と自問したことを昨日のように思い出す。頭の問題ではなく、感覚ないし感性の問題ではなかろうかというのが、私のたどりついた仮説である。

 「創氏改名」といえば、思い出すのは今はなき梶山季之の初期の作品「族譜」である(梶山季之『李朝残影』講談社文庫所収)。梶山は、1930年1月、ソウルで生まれ、父は朝鮮総督府の役人、敗戦で中学校のとき広島に引き揚げる。少年時代の植民地朝鮮での強い印象が『李朝残影』(1963年)に投影しているといわれる。
 朝鮮では家系を重んじ、家系図を代々引き継ぐ習わしがあり、それが族譜と呼ばれる。「族譜」は、有力地主薜鎮英−日頃は総督府の政策に協力的で、お米の供出なども率先して行う−に対し、朝鮮総督府がいかに執拗に“創氏改名”を迫ったかを描いている。ついに抗しきれなくなって屈服するが、その時薜はひそかに自害を心に決めていたのである。日本には責任をとる時「腹を切る」という表現があるが、朝鮮では「名前をかえる」というのがそれに相当するという。それゆえに、皇民化政策のひとつとして、「創氏改名」を敢えて進めたのであろう。
 「創氏改名」の本質を見抜いた少年梶山は、やがてそれを作品として昇華させたのである。なお、「族譜」は韓国で映画化され、NHKのアジア映画特集でも放映された。

 歴史にどう向きあうかを考える時、思い出す政治家のひとりに野中広務氏がいる。在日の戦傷軍属の戦後補償問題になかなか展望が見えてこない時だった。1998年9月の石成基・陳石一事件の東京高裁判決は、棄却ではあったが国に補償措置を促すものだった。1999年3月、野中官房長官は、「1990年代を締めくくる年において、この問題に前向きに対応する協議をやっていきたい」と答弁したのである。
 その後、ほんの短時間であったが、野中氏と話す機会があった。その時、野中氏は「日本人には毎年のように恩給法などを改正して支給額を引きあげているのに、ひどい話だよね」と言い放った。私は、この政治家の感覚はまともだなと直感したことを思い出す。翌年、きわめて不充分なものだったが、一時金を支給する特別立法が制定されたことは周知の通りである。

 麻生氏と同世代である「若い」小泉首相にも、どこか歴史に対する感性の鈍さを感ずる。「改革」や「未来志向」を盛んに説くが、外国人への地方参政権の開放は決して口にしない。麻生氏の東京大学での講演と「発言」をテレビで目にした時も、何か軽薄な、皮相なものを感じて、悲しさを覚えた。痛みを感じないもの、歴史を畏怖しないものに、感性は期待できないのかも知れない。

龍谷大学教授  田中 宏

 

 

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