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オピニオン 「在日高齢者の年金保障裁判で思うこと」

在日高齢者の年金保障裁判で思うこと

 最近、東京地裁は学生無年金障害者救済措置を講じなかったことが立法不作為だと判断した。これを受け、自公の与党が動き始めた。メーレックは、在日障害者と高齢者の裁判支援活動をおこなっている。彼らは、学生が無年金になった経緯とは異なる背景をもつ。自らの意志と関係なく年金制度から排除され、制度上参加できなかったのである。先日、事務局長の宋貞智さんと私は、京都と東京の仲間と一緒に、国会議員二十数名に対しての陳情行動に走った。
 勿論、多くは政策秘書の対応であった。私たちは、外国人犠牲者もこの際救済すべきだとの陳情をおこなったが、関心の度合いにばらつきがあった。厚労省駐在の記者団との会見もセットされたが、翌日、私の知る限りどの新聞にもベタ記事すら載らなかった。

 私は戦前、15歳で来日し、20歳までは創始改名による「岩城政雄」に徹した。撤兵にも応じ、士官候補生の推薦すら受け、海軍の軍需工場で8.15を迎えた。「岩城政雄」の成りの果ては、被支配民族の一員ながら日本のアジア侵略に加担した恥部の青春を担い、自己探しの戦後60周年を迎えようとしている。
 戦後4ヶ月後の朝鮮半島出身者への選挙権停止は、その後、現在80歳近い私に一度も選挙権行使のない人生を強いた。基本的人権の保障を中心とした憲法発布前日の1947年5月2日、天皇の勅令により国会は外国人登録令を通した。これにより旧植民地出身者は当分の間外国人とみなされた。連合国の占領政策は、当初朝鮮人を解放民族と考えたが、BC級戦犯などの取締上においては、理不尽に朝鮮人を「日本人」とした。したがって、朝鮮人は、建て前では日本人とされ、基本的権利の享受に関しては外国人として除外された。
 また、このような不安定な扱いが日本人にも影響を与えることとなった。私の事例から次のようなことがある。私は1951年に日本人との結婚届が受理された。当時、外国人であるはずの私も「日本籍保有者」とされた(1952年の外国人登録法をもって朝鮮人は一斉に日本国籍を離脱させられた)。そして、連れ合いの京都市左京区の本籍簿からは、酒井幸子欄が抹消され、私の戸籍にうつされた。夫が日本人とみなされたからである。しかし実際は、私は国交のない国の国籍保持者とされ、彼女の国籍は日本籍とはならずに宙に浮いた。結婚の新居に警察官が襲い、連れ合いは逮捕され5時間も密航者として頭ごなしの取り調べを受けた。後に外国人登録令違反ということで釈放された。 1958年に、家族ぐるみの韓国への引揚げ手続きをしたが、韓国では彼女は無国籍扱いとなり、韓国籍取得に時間がかかった。私のソウル赴任前に迷惑がかかっていることが分かり帰国を一時中断することとなった。その後、私は川崎で骨まで埋める結果を招いた。

 今、連れ合いは脳血栓に倒れ、介護を受けているが、4年前に金婚式を迎えた時、「あなたとの結婚がなかったら、歴史の狭間で生きる人々の痛みが分からないままだったから、今、その50年を共に生きられて感謝している。」という語りかけを受け、心の癒しとなった。しかし、私は「苦労をかけたね。」と応えるしかなかった。私どもの夫婦の事例は、結婚は必ずしも国籍変更にならないという国籍法の改正前の話だが、旧植民地出身者の一方的排除が日本人にも類を及ぼした証拠の一つになると思う。彼女はそれ以来、選挙権の行使もできず、社会保障制度からも排除された。
 後日談だが、彼女は無国籍扱いになっていたため、韓国の裁判所で韓国籍を取得した。その後、酒井幸子と記載された韓国のパスポートでソウル空港から入国しようとしたら、入国審査官に足止めされ、しばらく待たされた。私が、何か問題があるのかと聞くと、審査官に「韓国にサカイという姓があるのか。」と問われた。私が「韓国の戸籍では妻は夫の姓に従わない、妻は元日本人だ。」と言うと、頭を下げてお詫びをしてくれた。もっとも、ローマ字表記なので、「Sachiko Sakai」との記載によって、彼が混乱したのはもっとも思った。
 長い個人の物語を伝えたが、近代国家のポスト・コロニアル政策で、日本国家程、悪い排外主義を発揮した国はないと言い切れる。その生き証人が在日である。それらの証人は皇軍戦傷者であったし、慰安婦だったし、今は78歳を過ぎている無年金の壁にはばまれた人々である。国連の国際人権規約や、難民条約による内外人平等の人権の普遍法を批准している日本が立法不作為を繰り返していると、日本人の品位が問われかねない。1982年に導入された内外人平等の国民年金遡及措置をつみのこしたままでは、“恨”をかかえた人を見殺しにする結果となろう。彼らに時間がない。

 日本人の品性が問われている時、畏友の田中宏教授は最近、東京弁護士会の人権賞を受賞した。お祝いの席で、「自分は外国人の人権のために働いた覚えはない。近代国家があるべき姿をとっていないので『愛国』の哀情から声をあげた」という、さわやかな話をされた。考えてみると、在日が法廷闘争に入る度毎に多くの日本人の弁護士と友人達が傍に一緒にたってくれた。メーレックを支えてくれている理事もそういう日本人が共に担っている。

多民族共生人権教育センター理事 李仁夏

 

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