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意識的隠蔽と無意識的差別 去る7月16日(金)、第4回多民族共生人権研究集会が前年を上回る参加者を得て、盛大に開催された。多民族共生人権教育センターの法人会員も少しずつ増加し、研究集会の規模も次第に大きくなってくるにつれ、共生社会へ向けた活動の広がりを感じている。 しかし、気をつけなければならないのは、このような人権啓発や共生社会推進の活動に関っていると、さまざまな差別や排除に遭遇する一方で、多くの理解者・協力者との出会いもあるので、それがあたかも社会全体において理解者・協力者が増え、社会が良い方向に変わって来ているかのような「錯覚」に陥ってしまうことである。 確かに、理解・協力をしてくださる方々も多数いらっしゃるが、改めてもう一度この社会をよく見直してみると、この社会はまだまだそうそう良い方向に変わっているわけではないことがわかる。あからさまな差別や人権侵害こそ姿を隠して来てはいるが、その一方で、差別が巧妙に隠されていたり、陰湿な嫌がらせが増えていたり、または多くの人が、そのこと自体に無関心だったり無知であったり、差別や人権侵害の構造が変化してきているともいえるのではないだろうか。 たとえば、先般、某信用金庫のカードローンの申込審査において、日本人には住民票の提示を求めていないのにも関らず、外国人には一律に外国人登録証明書の提示を求めて在留資格をチェックし、「永住者」以外は一律に融資対象から排除する、という事件があった。 後に、外国人登録証明書の提示を求めること、「永住者」以外は一律に融資対象から排除することが不当なことであり、今後その点を改善し、社内で啓発・研修を行っていくことを確認するに至ったが、当初、信用金庫サイドは「これは区別であって、差別ではない」「融資の与信にあたって、これは致し方のないこと」という姿勢を頑なに崩さなかった。 ここでは、この一件の詳細は置いておくとして、この件に潜む2点の大きな問題について指摘しておきたい。 一つは、国籍、在留資格による処遇の違いが表向きには出されなくなっているということである。 一昔前には、このような融資や賃貸住宅の申込書の申込資格に堂々と「日本国籍であること」などという条件が明記されていたが、最近はそのような表記はめったに見られなくなった。しかし、国籍、在留資格による処遇の違い、外国人に対する差別がなくなったかというと、実際はそうではない。表向きには出さず、理由をあいまいにして排除する、といったことが現実にはまだまだ行われているのである。このように、あからさまな差別や排除が少しずつ姿を消す一方で、差別や排除の構造が巧妙になってきているということがいえるのではないだろうか。 もう一つは、差別や人権侵害をしている当事者に、差別をしている意識・認識がない、ということである。 信用金庫の一件においても、当初、少なくとも担当者レベルでは、指摘されたことの何が問題なのか、理解できないようであった。そして、「自分が差別をしているつもりがないのだから、それは差別ではない」という主張を続けた。実はここに日本社会のもつ重大な課題があるのではないだろうか。 差別をしているつもりがなければ、それは差別ではないのか?気がつかなければ、それは仕方がないことなのか? そうではないはずである。結果として、ある行為や発言に、誰かが傷つき、排除されるのであれば、それは「歴とした差別であり、人権侵害」なのだという自明のことを、すべての人が改めて認識していく必要があるのではないだろうか。 差別や人権侵害というと、ともすれば、あからさまな差別や、攻撃的なことを思い浮かべがちであるが、実はこの社会にはびこる差別や人権侵害はそればかりではない。むしろ、そのような「無意識の差別・排除」というものの方が多い。さらに、差別や排除を生み出している人間が、自分たちが結果として差別や排除をしているのだ、ということに気づいていないので、それだけに、そのような差別や排除がなかなか無くならないだけでなく、解決が困難な問題となっているように思う。 人は誰しも加害者になり得るし、その逆に被害者にも、さらには傍観者にもなり得る。そのことを肝に銘じ、常に自分の言動と他者との関りに意識的になり、自分自身やこの社会が「これで良い」という「錯覚」に陥らないようにしていく必要があるだろう。そして、他者とより良い関係を結んでいく、そのための心遣いと社会へのアプローチが、「共に生きる社会」をつくっていく礎となるのではないだろうか。 | 株式会社グローバルコンテンツ 代表取締役 | | | 多民族共生人権教育センター理事 | 岩山 仁 |
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