多民族共生人権教育センター
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オピニオン 多文化共生社会づくりに向けた「己」探しの必要性

多文化共生社会づくりに向けた「己」探しの必要性

 僕は、全国のあちこちで「日本における多文化共生の必要性」を訴える講演をさせて頂いています。そんな中、昨年(2005年)11月末に行った講演では少し厳しいものがありました。その前日に「広島での幼児殺害事件の犯人はペルー人!」と報じられたからです。僕は「外国人には特に犯罪などを起こしてほしくない」と日々願っていたので、心の中で「しまった」と悔しく思いました。「こんな事件があった直後に僕が『共生』について話しても、集まってくれた方々は聞く耳を持ってくれるだろうか」と自問自答しました。
 それにしても、世の中に流れている情報について素朴な疑問を抱くことが多々ありますが、そこではいつも共通して見え隠れするキーワードがあります。他に適切な言葉があるのかもしれませんが、自分の言葉で表現すると、それは「多数派本位」という言葉になろうかと思います。世の中の情報の一つ大きな特徴は、社会の多数派のための、多数派による視点で発せられているということです。広島の事件の犯人は当初日系ペルー人と報じられました。「彼は日系ではあるが、ペルー人である」という結論でしょうか。一方で、報道におけるこうした切り口が一定しないのも事実です。例えば、同じ日系ペルー人のアルベルト・フジモリ大統領の場合は新聞に大々と「日本人」として報道されたという記憶が鮮明に蘇ってきます。

 最近の「中国人妻による保険金目当ての殺人」についての報道もこれと共通しています。彼女は日本の国籍を取得していたので、国籍上は日本人ですが、マスコミは一団となって彼女の元々の国籍まで探り出すことに執着し、「外国人」として片付けようとしました。一方で、野球の王貞治氏の場合は、国籍はいまだ中国であるにもかかわらず、彼を「日本人」として語ろうとします。注意深く観察すると、これらは、「良いことは日本人」、「悪いことは外国人」という、単純な、子どもでもわかるロジックの上で成り立っていることに気づきます。日本のマスコミにおける多数派本位の傾向は、至る所で見受けられます。犯罪報道全体において、外国人犯罪を強調した報道の割合が目立って多いというのが現状です。
 モノや情報に限らず、国境を越えた人の動きも活発化し、グローバル化が進んだ現代の世の中にあって、人間が置かれている立場もより多様化・複雑化しています。それは、国籍だけで括れるものではありません。それにもかかわらず、「犯人は外国人風」といった、社会の少数者を無条件に傷つける、デリカシーのない、時代錯誤の情報発信はいまも後を絶ちません。
 日本人離れした僕が、知らない人から声をかけられるときの第一声は、だいたい「どこの人?」です。相手が聞きたがっていることはよくわかります。でも、それほど人間が出来ていない僕の答えは一定しません。実にばらばらです。質問してきた相手の姿勢、僕の気分の起伏などによって大いに変わってきます。「京都」などと答えることもありますが、余裕のないときは「ちょっとそこ」とか「近所」とかと返すこともあります。
 
 でも最近になって事態が変化しました。それは、相手がどうのこうのではなく、むしろ僕側の変化が原因です。実は帰化したのです。「帰って化ける」という字はどういう意味なのか、と悩んだ自分が懐かしい。日本に来て18年目の誕生日に紋付袴で法務局に行き、日本国籍取得の手続きを行いました。その際「外国人が日本人になる瞬間を見たいだろう」と、教え子をたくさん連れて行きました。でももちろん、僕自身もさることながら、学生の中で、国籍取得の前と後での僕の変化に気づいた人は誰一人としていませんでした。
 アイデンティティーという英語があります。日本語で言うと「己」といったところでしょうか。その「己」を国籍に求めるのが、どうも常識のようです。それはもちろん間違いではありません。でも、唯一のものでもないと思います。近代国家たる概念は、出来てからまだそれほど長い時間が経っていません。国の数も減ったり増えたりです。こんな新しくて、いい加減な概念に「己」を求めるのは勇気がいるのではないか、と思うときがあります。

 しばらく前に、友人が僕の癖を一つ見つけてくれました。僕はどうも辛いものを口に入れた次の瞬間、無意識にもう片方の手で頭をぽりぽり掻くそうです。気をつけてみると、本当でした。何でこうなるのか、いろいろ考えて僕なりの結論にたどり着きました。僕が生まれて17歳まで過ごしたスリランカの食事では比較的辛い料理が多くありました。辛いものには発汗作用があるので、きっとたくさんの毛穴が開いていたのでしょう。ところが、最近の僕となると、京都の薄味に慣れてしまっています。自分でも不思議としか言いようがないのですが、いつの間にか京都の薄味が基準になって、京都のグルメを紹介する番組の司会をやっている時に、料理人に対して、味が濃いとか失礼を発していることもあります。薄味では頭の毛穴はその役割を求められません。そして、薄味のものを食べているときに休んでいた毛穴が、辛いものを口の中に入れた瞬間目を覚ます。そうです、これこそが、作った覚えもない国の概念より一番しっくりくる僕のアイデンティティーです。
 各々が、国家を離れた「己」探しを行うことが、多文化共生社会の創造への一つの道なのかもしれないと切に思います。

多民族共生人権教育センター理事、山口県立大学助教授 J.A.T.D. にしゃんた

 

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